2018年1月19日金曜日

病理の話(161)

切り傷を作ってしまったとする。

ナイフで指をちょっと切った、くらいを考える。考えるだけでいやだよね。

主にぼくらは痛みそのものと、血が出ること、さらにもうひとつ、審美的な理由で傷をいやがる。しかし人体にとってはもうひとつ、重大な「いやなこと」がある。

それは、「皮膚の細胞が欠損してしまう」ということだ。

欠損するとなにがまずいか?

皮膚はすなわちバリケード。強固な防御力を表現する日本語に「水も漏らさぬ」という表現があるが、文字通り、皮膚のおかげでぼくらは風呂に入っても水分が体内に入ってこない。これは実はすごいことである。

このバリアが部分的に欠けてしまうのは、とてもまずい。刺激物、毒、病原菌などさまざまなものが入ってきてしまうし、血液や組織間液のような体内のものが漏れ出てしまうことにもつながる。

バリアの欠損部は直ちにふさがなければいけない。まずはスピードを重視する。クオリティは二の次で、すぐに穴をふさぎたい。ここで登場するのが、かさぶた(血小板プラスいろいろ)。

かさぶたなんて、よわっちい。子供が指ではがしてしまえる程度に弱い。

けれど、いいのだ。まずはすぐに穴をふさぐことこそ肝要だから。

そして、今日の話は、その後……。創傷治癒のセカンドステージの話をする。



少し時間の経ったかさぶたをはがしてみたことはあるだろうか?


そこには、まだ少しじめじめしているような、じわりと血がにじんできそうな(でもピューッとは出てこない)、赤みがかっていかにも「肉々しい」、ふだんあまり目にすることのない肉が見える。

これを肉芽という。ATOCだと「にくが」と入力しないと出てこないが、医学用語では「にくげ」と発音する。

肉芽は、土嚢(どのう)の役割を果たす穴埋め物質だ。生体がダメージを受けて欠損部ができたときにしか登場しない。かさぶたよりもしっかりした硬さをもち、組織の足りない部分を補ってくれる。

どのうと書いたが、実は単なるどのうではない。

赤いというのはつまり、血流が豊富な証拠。肉芽には、細かい血管が非常に高密度に含まれている。大量の毛細血管に潤沢に血液が流れ込み、組織の再構築に必要な物資を次々と運び込む。

単なるどのうではなしに、「災害復旧ボランティアが集まってくるキャンプ」にもなっている。それが肉芽だ。

肉芽の中や周りには、時間とともに線維芽細胞(また「芽」だ)という細胞がたくさん現れる。線維芽細胞はタケノコだ。いずれ強固な竹(線維)になる。この竹で、バリアはさらに強固に組み直される。線維は弾力があるので、周囲の組織をひきつれさせて、穴をふさぐ手伝いをしてくれる。傷がひきつれて痕が残るのはこの線維のしわざであり、審美的には困ったものだが、人体にとっては穴を一刻も早くふさぐために大変役に立つ。


かさぶたによる一時的な穴埋めから、肉芽による物資供給、そして線維による盤石な硬さ、ひきつれ。

線維が完璧に防御しているあいだに、失われた組織がほぼ完全に元の構造を取り戻すことができれば、線維は最終的には吸収されて消えてなくなる(なんて都合のよい物質だろう!)。穴が大きすぎて元通りの復旧ができなかったときには、線維はそのまま居残って、硬さとひきつれを残す。これがいわゆる「古傷」である。


以上の創傷治癒は、ケガだけでなく一部の病気でも起こっている。炎症が起こり、臓器の破壊がある場合には、再生の段階で切り傷と同じように肉芽が作られるのだ。

ただし、組織破壊があれば100パーセント肉芽による再生がおこるわけではない。例えば結核菌や寄生虫などによる炎症では、なぜか肉芽がうまくできてこないことが多い。

ああ、読者諸氏も、いよいよ難しい話になったなあと思ったろうか? 申し訳ない、細かいことはともかく、「災害復旧ボランティアが集まりにくい病態」というのがあるのだ、くらいの理解でよいかもしれない。

実は今日の記事はちょっとした私信なのである。これを勉強している人がタイムラインにいたのだ。参考になればいいなあと思う。彼はきっと、今回の記事で少し視点を増やしてくれるのではないかなあ、と思う。

2018年1月18日木曜日

年々歳々いささかささい

SFだと思って読んだ本がミステリだったのだが、なんだこれミステリじゃねぇか、しかも設定のわかりにくいやつだ、と思ってがっかりしながら巻末の解説を読むと、「これは立派にSFである」という堂々たる宣言があった。

なるほどたしかに。

解説者が専門的な目で中身を肯定してくれたから、読書の時間が無駄にならなくてすんだ。ああよかったなぁー、ぼくの中途半端な読み方だったら、この本は永久にクソミステリに分類されて二度と言及しなかったろう!



なーんてことがあったので、「解説」というものの功罪をじっくりと考えている。

まだ考え中だから、どういうことを思っているかについてはあまり書かないけれど。ちょっとだけ書いておく。

解説者というのはできれば悟っていてほしい。自分のいうことに自信がなくても、根拠があいまいでも、だれかに怒られそうでも、そのときのあなたの立場をそのままぶつけて、解説の対象を盛り上げたりくさしたり、とにかく一本スジを通してさえくれれば、こちらはあなたの解説を読んで、右に曲がろうか左に曲がろうか、それともまっすぐ進もうかと、三叉路で少し胸を張って選択できるかもしれないのだ。





話はかわるがちかごろ引っ越しを考えている。けれど、結局はしない気がする。もうなんだか引っ越しという作業にあこがれる年でもない。模様替えにも心がおどらない。新しい住み処のまわりにあるコンビニの種類が今までと変わったといって浮かれることもないだろう。本屋はどのみち札幌駅まで行かないとない。いい感じの飲み屋が1軒あったくらいではぼくの生活はもはや何も変わらない。たぶん今のぼくは、選択肢をどっちに動いたらすごく変わるとか、あの案件を拾ってあの案件を捨てたことで人生がひどくおもしろくなるとかつまらなくなるとか、そういう、「選択次第」の段階を少し抜け出したのではないかと思う。



だからこそ、これからの選択については、あまり大勢に影響がなく、多くの人に迷惑をかけることもなく、ただひたすら、自分の過ごす2時間のために少しいいか悪いか、くらいの、マイニュートな気持ちの浮き沈みのためだけに慎重に選んでいきたいんだよなあ、とかそういうことを考えている。

マイニュート、ということばを「些細な」から書き換えるまでに20秒ほど考えて選択をした。

この選択で誰かがとても悲しむわけではなく、ぼくがとても大喜びすることもないが、ぼくはこういう選択を次々と繰り出しながら、何も変わらなくなりつつある自分の人生に対して些細な勝負をしかけていくことになるのである。

2018年1月17日水曜日

病理の話(160)

ちょっときたない話をする。……なーんて書くといやがられるので書き方を変える。ちょっと、「きれいにするための」話をする。

何の話かというと、垢の話だ。ツイッターアカウント(垢:アカ)のことではない、皮膚から出る垢(あか)のことだ。

垢とはつまり、細胞の死骸である。細胞は新陳代謝をしており、産まれて、育ち、役割を果たし、そして死んでいく。

皮膚の細胞がつぎつぎとターンオーバーし、最後は死んではがれたものが垢である。

この垢、めんどうでばっちい嫌われ者であるが、実はお察しの通り、「機能」がある。

その機能とは、皮膚の表面についた汚れを、細胞の死骸ごと捨て去るということだ。汚れくらいいいじゃん、というわけにはいかない。皮膚は人間の最外層でヒトを守る防御ラインであり、そこにつく汚れというのは、マッキーの赤インクやエンピツの黒鉛に留まらない。

細菌がついている。病気をもたらすものも、もたらさないものも、まとめて。

カビもつく。

毒もつくことがある。現代に限った話ではない、植物由来の毒とか、動物由来の毒だってご存じだろう。生命は生きていると、なんらかの毒に接することがあるのだ。

これらが皮膚の表面にずっと留まって、体の内部に悪さをしないよう、皮膚の壁が垢となって、まるごと落ちていく。

つまり生命は、廃棄処分するゴミにも機能を割り当てているわけだ……。



鼻からハナクソが出る。

耳からも耳垢がでる。

では、口の中は? 食べ物のとおる、消化管は?

口から肛門までの消化管、その「垢」は、便の中にまぎれこんでいる。便を構成する物質の1/3は、いわゆる消化管の垢だという説があるそうだ。

うーむ、いたるところで「垢」が仕事をしている。

でもここで、ふと思うわけである。

皮膚の奥にある、筋肉とか脂肪とか、あとは……たとえば肝臓とか腎臓の細胞なんてのは、あれ、新陳代謝のときに、垢をどうしているんだろう。

これらの「奥に潜んでいる臓器や器官」は、パイプを通じて外界とつながっていない。

だったら垢をどこに捨てるのか?



その答えは、その場で「おそうじ細胞」がやってきて、古い細胞を壊して、取り込んで、溶かして、あるいはカケラをどこかに運んでいって捨ててしまう、だ。

体の中で垢がぽろぽろ落ちるというのは、皮膚の表面から落ちて外界にちらばっていくのとはわけが違う。口とか肛門みたいに、外部に開口する入口(あるいは出口)があるならそこに捨てればよいが、完全に密閉された臓器の中であれば、ゴミがそこら中に蓄積してしまうだろう。人体がゴミ屋敷であっては困る。

だから、体内の新陳代謝においては、「剥がして捨てる」のではなく、「おそうじ細胞」を用いるのだ。

おどろくほどによくできている。

「おそうじ細胞」にはさまざまな種類がある。マクロファージ、と呼ばれるものがその代表だが、ほかにも様々な細胞がある。以前にノーベル賞をとった東京工業大学の大隈先生が研究していた「オートファジー」という機能も、広い意味ではおそうじ細胞に関連した話である。ファジーとかファージということばは同じ語源だそうで、食い荒らすとかめちゃくちゃに食うという意味をもつらしい。



生命は、体内ではゴミを食い尽くし、体外ではゴミを汚れといっしょに振り落とすシステムを身につけた。ほれぼれする複雑さだ。

で、この、複雑さが「狂う」ときがある。その代表が、がんだ。

体の外にいる、皮膚の細胞は、ばんばんはがれおちてもいい。外にそのまま消えていける。

体の中にいる細胞の場合には、死ぬときにおそうじ細胞がきてくれないとこまる。

がんでは、これらの法則が乱れてしまう。

CTやMRIといった画像システムで「がん」をみると、がんが作るかたまりのなかが「異常に死んで、ゴミまみれになっている」ことがある。「壊死(えし)」とか、「壊死物質の蓄積」などという。がん細胞が異常に増える過程で、新陳代謝した古いがん細胞を捨てるシステムがないから起こることである。

正常の組織の中に壊死があらわれることは基本的にありえない。だから、放射線科医をはじめとする「画像をよみとく医療者」は、この「壊死を読み取ろうとする」。

がんそのものだけではなく、「異常に細胞が死んでいるところ」を見極めることが、診断にも役立つわけである。



垢は死んでも何かを残す。まるでツイッターのだれかさんのようではないか。

2018年1月16日火曜日

デカルトの話ばかりではいカント

「居場所の話」というのはじわじわ難しく、許される・許されないみたいな切り口だとシンジ君とか中二病のふんいきが漂うし、しっくりくる・しっくりこないみたいな切り口だとミサトさんとか吉高由里子さんのふいんきが漂うし、探す・探さないみたいな切り口だと沢木耕太郎……にあこがれてSmartのふろくについてきたバックパックでトルコやチュニジアあたりを半年間放浪する青山学院大学2年の大学生みたいなふんきいが漂ってしまう。

書きにくいし語りにくい。居場所について考えているんだよね、といえばそれだけで「またそうやってすぐ自己顕示欲みせびらかすんだから、もー」と相手を考える牛にしてしまう。我思うゆえに我在り、我ときどき考えるゆえに我ときどき存在する。誰かに考えさせてはだめだ。存在させてしまうことになる。ヴァレリーみたいなタイプが友達にいるときっと毎日めんどうくさいだろうな。「考えるな、感じるんだ」の脚本はどれくらい考えた末に生み出されたのですか?



ここにいていい、いてはだめだ、みたいなセリフをぼくはどこで使うかというと、実は病理診断のときに一番使う。

「おっ、固有筋層の中に上皮……ここにいていい細胞じゃないんだけどな……どういうことかな……」

みたいなかんじである。

細胞というのはよくできていて、居場所ごとに役割ががっちり決まっていて、「いていい場所、いてはいけない場所」というのがあるのだ。一番わかりやすい例を出そうか、これでわからなかったらあなたは人間ではなくおそらく妖怪であろう、という例。

全身のいたるところに毛がはえているだろう。産毛レベルまで含めればそれはもうけっこうな量だ。

けど、この産毛、もしまぶたのウラに生えていたら大変なことになるだろう? かゆくてかゆくてしょうがない。さかさまつげのひどいやつ、みたいになってしまう。けれど人間、まぶたのウラには毛が生えないようにできている。眼球の黒目の部分にも、毛は絶対に生えてこない。

「毛をつくる機能をもった細胞は、眼球の表面やまぶたのウラには決して分布しない」ということ。

この「場所の規定」がくずれてしまったら、あらゆる人間はうまく生きていけなくなる。

眼球の上に、たまたま1個だけ、胃酸を作る細胞が紛れ込んでいたらどうなる? 胃酸というのは胃だから許される物質であって、あれはつまり塩酸であり劇薬だ。胃には、塩酸で胃の壁自体をとかさないしくみがある。胃酸のほかにきっちりと粘液がでて、胃の壁を保護してくれるからいいのだ。

うっかり、眼球の上に、胃酸を作る細胞が1個あってみろ。目がとかされてしまうだろう。夕日が目にしみるどころの騒ぎではない。そうならないように「場所の規定」をしている、これが人体のたくみさである。

だから病理医はしばしば、「ここにこの細胞がいるのはおかしい……」という視点で細胞をみて、「つまりこれは、配置のエラーがある。配置のエラーをもたらす理由は2つ。先天的な間違いと、後天的ながん。今回はおそらくがんだろう」という考え方をするのだ。



そんなぼくが、早朝、仕事場にひとり、顕微鏡をみながら、「ぼくはここにいていいのかな」とか言っている場合ではないのである。シンジ君が拍手をしている。ミサトさんが拍手をしている。トウジだけは「おめでとさん」とか言っている。ここにいていい、いてはだめ、を語って良いのは病理診断学だけなのだ。ぼくはがん細胞ではないから、ここにいていいも、悪いも、ない。

社会のガンという言葉もかつては使われていたけれど、あれはやっぱり不謹慎だから使われなくなったのだろうな、とかそういうことを考えていた。そういえばぼくは、「深夜特急」の最終章も好きだったけれど、一番好きなのはどこかのユースホステルにうっかり腰を落ち着けてしまい旅を続けられなくなっていた若き「ぼく」が、何かのきっかけでついにそのユースホステルを出て旅の続きに出るシーンが一番好きだった。一番好きだったはずなのに、内容をまったく覚えていないというのが、なんとも極めて人を食った話だなあと思うし、今日のこのエントリを「病理の話」にしないで一般の話題に紛れ込ませてしまったぼくの性格は、我ながらあまり好きではない。きもちわるい。最後のはアスカで読んでもらうことになる。

2018年1月15日月曜日

病理の話(159)

ぼくは昔考えた。

60歳くらいになったら、毎日少量の抗がん剤を点滴してみてはどうなのか、と。

そうしたら、まだ小さくて人体に影響を及ぼさない時点でのがん細胞を、未然に倒すことができて、結果的にがんを予防できたりはしないのか……と。


結論からいうと、ま、そんなことはむりなのであった。

理由をいくつか書く。





まず、抗がん剤って、種類がいっぱいあるのだ。がん細胞の種類によって、効きやすい抗がん剤というのが異なる。

だから、あるAという抗がん剤をずっと使っても、ある種のがんにしか効果がない。

万病に効く予防薬というのがそもそもありえない。




次に、抗がん剤というのはある程度の濃度を用いないといけない。

がん細胞が少ないなら抗がん剤も少なくしていい、というものではない。

少なく入れては意味がない。




さらに、がん細胞が「出始めたころ」には、あらゆる抗がん剤の効きが悪いのではないか、という仮説がある。

特に、がん細胞の「女王バチ」ともいえる存在……「がん幹細胞」は、細胞分裂の回数が少なく、かつ抗がん剤が効きにくいらしい。

抗がん剤というのはそもそも、ある程度進行したがんにしか効かない可能性すらある。

がんの初期に用いて意味がある抗がん剤、というのはまだ開発されていないのだ。




おまけに、出始めたころのがん細胞というのは、体内の警察システム(免疫)によって、ぼくらが何もしなくても、ほとんどの場合は未然に倒されている。わざわざ抗がん剤を飲むまでもない。そういう免疫を宝くじなみの確率ですり抜けたやつだけが、ぼくらの目にみえるサイズのがんに育つ(だいたい10年くらいかけて)。




そうそう、金だってかかる。

でも、仮に、ビルゲイツみたいな大金持ちが、毎日大金を投入できるとしても、毎日抗がん剤を投与することには意義がないのだ。

もう少し医学的な用語を解禁すれば、まだまだ「がんにかかる前から抗がん剤を飲むことに意味がない理由」を語ることができる。けれど、医学的な用語を使わなくても、いくらでも理由が思い浮かぶのだった。





ぼくは、医学生のときの自分の考えを、こうして覚えていて、覚えた知識を使って、「ああー無理だなあー」と納得したりする。

かつて、「あれ? 実はこうしたらいいんじゃね?」と夢想していたことのほとんどは、医学的に検証してみるとどこか穴があり、破たんしている。

今、ぼくが信じているがん理論も、後の世の優れた医学者から見れば、どこかは破たんしているのかもしれないけれど……。たぶん、大多数は合っている。これらはぼくの一存ではなくて、医学が積み上げてきた歴史だからだ。多くの人々の目を通り抜けてきたことがらばかりだからだ。




今、とりあえず「真実だと思うよ」といえることがある。それは、「がんと戦うときに、裏技というのはありえない」ということだ。

がん理論には統計と確率というのが必ず存在する。この治療が効く確率、この治療薬が効果をもたらす割合……。

これらをすべて乗り越えた、何にでも、どういう状態にでも作用する夢の薬というのは、理論上ありえない。

いかにもな裏技、マル秘テクニックなどで、今の健康生活を何倍にも延ばすことができるかというと、そんなものは存在しない。

一個一個、これはここまで役に立つ、これはこういう人に役に立つ、と、地道に詰めていくしかない。診断も治療もオーダーメードだ。層別化しなければいけない。患者ひとりひとりにタイプがあり、病気ひとつひとつに種類があり、進行度があり、確率がある。

それらに個別に対応していくのに必要なのは誠意と知恵と少しの運であって、ウルテク(©ファミマガ)ではないのである。

2018年1月12日金曜日

VOBファイルみたいな規格を今後はいっさい作らないでほしい

正月にはモンハンをやりまくった。アトラル・カをソロで狩れた。やったーと声が出た。

何をいっているのかわからない人はほうっておいて次の話をする。

紅白歌合戦をずっと見た。ぼくは実家にいた。両親といろいろ話をしていた。

その中で、「ああ、ブログ読んでるよ あれはいいね」というセリフがあった。母だったか父だったか。

そうか、ツイッターをやめたことには触れないでいてくれたのだな、とそのとき思った。



正月はカズオ・イシグロを1冊だけ読んだ。「日の名残り」。すばらしかった。

この本を読んだきっかけが、両親が録画しておいてくれていたNHKの番組、それも2本。

2本それぞれ、カズオ・イシグロがインタビューに答えたり講義をしたりしているやつだった。これを、本より先に見ておいた。

番組の中で、「日の名残り」の映画版の映像が数秒使われていた。ブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作は映画になっていたのだ。イギリスの牧歌的な風景の中を古いフォードがすーっと横切り、後ろには破壊的に美しい夕日が瞬間的に映り込むシーンだった。

ぼくはその場面が目に焼き付いたまま、本を読んだのだ。3時間半で一気読みであった。なんとすばらしい情景か。なんと美しい叙情か。感動しながらあっという間に読み終わった。本を閉じる最後の瞬間まで充実していた。



充実をふりかえりながら、ああ、ぼくの感動の半分くらいには、あのテレビで一瞬みた、イギリスの夕暮れにフォードが走るシーンが、まるで和食に対しての醤油のように、ずーっと降りかかっていたのだなあ、と気づいた。



映像というのはすごいし、文章を飛び越えてしまうなあ。




帰省時にみつけた、とても古いDVD-CamをPCにつないで、10年以上前のビデオを数分間分だけサルベージした。

そこには産まれて間もない息子が写っていた。映像というのはすごいなと思った。ぼくは人よりだいぶいい正月を過ごしたのだが、そのほとんどが映像によってもたらされたものであって、文字や音声は少ししょぼんとした顔でこちらを見ていたように思う。また文字と音声との毎日に戻るよ、と声をかけたところ、文字も音声も少し機嫌を直してくれたようだった。

2018年1月11日木曜日

病理の話(158)

病理医が臓器を目でみて、顕微鏡でさらに深くみた結果、最後に得られる結果が、

病理診断

である。



この病理診断を伝える方法は、シンプルだ。書く。文書として残す。

結果を急ぐときには、直接担当医に電話することがある(けっこうある)。けれど、口で伝えたあとも、必ず文字に残す。

病理診断報告書、の形式の文書をつくる。病理レポート、などという。



(※ちょっと話はずれるけれど、病理レポート、と書くと校正から「リポート」に直される場合がある。確かにお天気予報はウェザーリポートだし、報道関係者が現場からするのもリポートである。けれど、病理の現場はレポートと発音されることが一般的だ。なぜかはわからないけどたぶんノリとドイツ語の名残ではないかと思う)




病理レポートの書き方には決まったスタイルがない。法的に定められてはいない。

けれど、しっかり仕事をする病理医であれば、だいたいスタイルは似てくる。




がんであれば、「がん取扱い規約」の書式にのっとって記載することが一般的だ。

「規約事項に沿って書く」などという。

全身あらゆる臓器のがんには、それぞれ「規約」が設定されている。胃癌なら胃癌取扱い規約、大腸癌なら大腸癌取扱い規約、乳癌なら乳癌取扱い規約という。そのまんまだ。

規約が定める評価項目をすべて埋める。ウェブアンケートに答えているようなかんじだ。内容の1つ1つがやたらと重いアンケートに粛々と回答するイメージ。老いも若きも、病理医であれば、まずはこれが基本となる。

アンケートの項目。

・病気のサイズ。

・形。

・どれくらい深く広くしみ込んでいるか。

・増えている細胞の種類。

・病期分類(ステージ)。

ほかにもいろいろ。どんどん、箇条書きにしていく。



アンケート方式でひたすら穴埋めをすることだけで病理診断を終えると、レポートはわりと無味乾燥なものに仕上がる。

無味乾燥でもけっこう、学術的に厳密であるほうが大事だ……と、考える病理医も多い。

それに、アンケート形式のレポートは、無味乾燥ではあるが、いつ読んでも同じ形式で書かれている分、読みやすい。リーダビリティが高い。

やはり病理レポートの原型は箇条書きであったほうがよいように思う。




……けれど、病理診断が常にアンケートだけで終わるわけではない。

そもそも、アンケート形式のレポートが書けないときだってある。

どういうときかというと、それは、「生検」のときだ。



胃カメラの先っぽから出したマジックハンドでつまみとってきた、小指の爪よりまだ小さいくらいの小さな粘膜のカケラ。内視鏡医が、「ここが病気の一部分に違いない」と、氷山の一角よろしく、わずかに採取してきた検体をプレパラートにして、病理医に診断をゆだねる。

「生検」という。なまけんではなく、せいけん。

「生検」でみる細胞の量はとても少ない。

観察できる範囲も非常に狭い。

そうなると、箇条書きの項目を埋められない。

病変のサイズ? 全体像を見てないからわかりませんね。

病気がどれだけしみ込んでいるか? 全体像を見てないからわかりませんな。

箇条書きは空欄ばかりとなる。

しかし、空欄ばかりだからと言って役に立たないわけではない。

「生検」によって、病気の一部をつまんでくることで、それがどういう病気なのかをある程度判断して、これからどのように治療を進めていくかという戦略を立てることができる。

端的に言えば、「がんか、がんじゃないかがわかる」。



アンケートの項目は非常に限定されるが、とても重要な質問の回答が得られる。

それが生検だ。

では、生検のレポートには、非常に少ないアンケート項目だけを箇条書きにすればよいのだろうか。



うん、それでもいいとは思う。

けれど、ぼくは、あるいは多くの病理医は、「できればもう少し、箇条書きのほかにニュアンスを伝えたい」と思ったりするのだ。

「病理医が目でみて、顕微鏡でみて、考えたこと、感じたこと」を書く。

イメージとしては……ほら、たいていのアンケートの最後に、「自由記載」欄があるだろう。「その他」でもいい。

あの自由記載をどう使いこなすかが、病理医としてのウデのみせどころ……な気がする。

最後に書いた一文が、臨床医をぐっと納得させることは、ある。

よくある。




いくら自由に書くとはいっても、主観が入りすぎていたり、その人しか使わない表現があふれていては、読む人が困る。

だからある程度、病理学独特の用語というのを用いる。

病理学的に普遍的なやりかたで。

病理学的にわかりやすく。

いつ、だれがプレパラートを見直しても、納得できるように。

いわゆる「所見」を書く。




例をあげよう。

診断名: Adenocarcinoma.

 (これが、いわゆる「箇条書き」だ。がんだ、と書いてある。短い。一行で終わる。)

所見:

左肺上葉TBLB検体 4片:

末梢肺組織、及び細気管支壁が少量ずつ採取された検体です。
一部の末梢肺組織内において、肺胞上皮を置換して増殖する腫瘍細胞を認めます。クララ細胞やII型細胞に類似した形態を示し、いびつで濃淡のムラがある核膜と明瞭な核小体を有する腫大した核を有する腺系の異型細胞です。腺癌 adenocarcinomaと診断いたします。

 (これが、「所見」。別に書かなくてもいいけれど、書きたくて書く。読みたい人もいる。)




所見を書くといくつかいいことがある。病理医がまじめに取り組んでいる証拠になる。病理学を勉強したい人にとって役に立つ。診断の根拠を知ることができる。

さらに。

診断という箇条書き項目は、時代を経るうちに「変わる」可能性がある。

その一方で、所見というのは時代を経ても「変わることがない」。

診断は可変だが、所見は不変である。だから、所見を書いて残しておくことに意味があるのだ。

たとえば、肺のとある癌がとある状態を示すとき、現在の医学では adenocarcinoma in situ という名前で記載する。

この病気を、昔は bronchioloalveolar carcinoma と書いていた。

ほとんど同じ病態であっても、まるで違う名前だ。偉い人はいろいろ考えたのだろうが、それにしても、昔と今とで呼び名がまるで違うと、ぎょっとする。

「分類」が変遷すると、箇条書きの項目ががらっと変わってしまうことになる。

しかし。

たとえ箇条書きの項目や、診断名そのものが時代とともに変わろうとも、所見の欄にきちんと「非浸潤性の増殖を示す腺癌です。」と書いておけば、「ああ、今でいうとあの病気なのだな。」とわかる。




フラジャイルというマンガにはサブタイトルがついている。

あれを、「病理医 岸京一郎の診断」とせず、「病理医 岸京一郎の所見」としたのはほんとうにすばらしいと思う。岸京一郎の診断する病気には、その時代ごとにさまざまな名前が付けられているかもしれない。岸京一郎がAと診断したものは後の世でBと呼ばれているかもしれない。しかし、岸京一郎が見て表現した「細胞のかたちや配列、ありよう」は後世の人が見ても不変であり、たぶん絶対なのである。なあ、すばらしいと思わないか。ぼくは思う。

思うのだがあんまりみんなわかってくれない。くやしいので今日こうして残しておく。