2018年4月19日木曜日

病理の話(192)

それぞれ学習の進度が異なる研修医のみなさんを眺めていると、病理診断というものが、当初医学生や研修医たちにどのように思われており、それがどうやってプロの仕事に近づいていくか、という過程を眺めているような気持ちになってなかなかおもしろいのである。


まず、病理にはじめてやってきて、学生実習以来はじめて顕微鏡をのぞく人は、顕微鏡のクオリティに驚く。

実習で使った顕微鏡とは見え方がまるで違うのだ。よく見える。はっきり見える。びしびしピントが合う。なんだかボタンがいっぱいついている。

横からぼくがやってきて、少し光量を落とすことを教える。解像度のよい顕微鏡は、あまり明るくしなくても細胞がきちんと見える。光量が強いとすぐ目が疲れてしまうから、疲れないように。

自分でハンドルを動かしてみて、あまり酔わないことに気づく。

なぜ酔わないのだろう。レンズがいいからだろうか。

実は、「光軸の設定」が完璧だと、酔わない。というか、実習で使っている安い顕微鏡は光軸がずれており、いわゆる「乱視」みたいな状態になっていることが多いので、しばらく見ていると酔ってしまうことが多いのだ。

あれを顕微鏡だと思わないでほしい。

病理の最初は、まず、「顕微鏡ってすげぇんだな」を知るところからはじまる。



そして、ひととおり顕微鏡で遊んだ後、ぼくのしゃべる内容にほとんど顕微鏡の話が出てこないことに気づく。これが第二段階だ。

病理診断は顕微鏡をみる前に9割終わっているのだ、ということを理解してもらう。

病理診断学は、顕微鏡診断学とイコールではない。

病理診断学の一部に顕微鏡診断学があるに過ぎない。

そのことに、きちんと「ショック」を受けてくれる研修医は伸びる。

「顕微鏡をみる前に、あるいはみている最中も、ほかにやることがいっぱいあるんですね。」

これをわかってくれると、病理部の存在が単なる「顕微鏡屋」には見えなくなってくる。



その上で、病理診断報告書の書き方を学ぶ。

「箇条書き」と揶揄されるレポートの中には、統計学の番人たる病理医の矜持が籠められていることを知る。

「病理医にしかわからない自己満足の長文解説」が、臨床医や患者と離れた場所で病理医が担保しなければいけない診断均てん化に果たす役割を学ぶ。

そして、「臨床が求める美しいレポート」のありようを探る。

読みやすく、かつ、文章を追うだけでまるで顕微鏡像が思い浮かぶような「名文」を考える。

名文の先にある「神報告書」だと、なんと文章を読むだけで臨床医がみていたCT, MRIなどの画像情報や、患者さんの顔色までが見えてくるのだ、ということを知って、笑う。



いいレポートを書きたい、と思ったら、顕微鏡の見方が洗練されてくる。

教科書に載っている典型像を、必死で顕微鏡で探すだけの、「絵合わせ診断」は卒業だ。

何がみえたらまずいのか。何を探してみつけに行くのか。そういったことを考えて顕微鏡をみるようになる。




「いいなあ病理医は、細胞だけみてりゃいいんだから」とイヤミをいってくる臨床医の気持ちを忘れないうちに。

臨床医がなぜ、病理医に対してそんな卑屈な感情を抱くに至ったのか、思いを巡らせ。

臨床医がいつか、「あの病理医に細胞をまかせておけば安心だ」という日がくるように。

どうしたらよいコミュニケーションがとれるかを夢想する。




臨床医と良好な関係を築けるような病理医を目指しているある日、病理学の教科書が気になる。

そこには、しばしば、臨床医の方を全く向かずに、顕微鏡だけで組み立てた「真実」が載っている。

そういうものが、むしろ、逆に、気になってしょうがなくなる。

医師免許をとりながら、あえて顕微鏡の世界だけに暮らした人々というのがいる。

臨床医とがっちり会話しながら、患者に思いを馳せる病理学はとても楽しい。そんなこと、昔の病理医だってわかっていたはずなのに。

なぜ昔の病理医は、「ただひたすらに顕微鏡をみること」を、そんなにおもしろいと思えたのか?

……逆に、気になってくる。

だから読む。しばし読む。じっくりと読む。

行間から、「どうだ、病理学だぞ」というプライドのようなものが立ち上がってくる。

その奥に、本当に繊細なプロの仕事がみえてくる。




このブログを毎日欠かさず読んでいる人というのは、全国に1000人くらいしかいらっしゃらない。たったの1000人だ。

その中に、病理の研修をしている研修医というのが何人含まれているだろうか。

もしかしたら1人もいないかもしれない。それでもいちおう、書いておく。




あなたは今日の記事の、どこに一番「共感」したくなったろうか。

必ずしも順番が一緒ではないかもしれない。

あるいはひとつも共感できなかったかもしれない。

でも、たいていの病理研修医たちは、これらをある程度順番通りに通過していく。

病理医の人生みたいなものが、おぼろげに見えてくる気がして、とてもおもしろいなあと思う。

2018年4月18日水曜日

ドングリ

やれやれ、と一息ついたところで技師さんがデスクに来た。

先日、岡山出張のときに検査室に買ってきたおみやげのきびだんごを持ってやってきた。

先生も食べませんか。

あらまありがとう。

自分で買ったおみやげを自分で食べる。ふかふかしておいしかった。



食べ物とか音楽というものが自分の神経を柔らかく、ゆるやかにしてくれるということを、なるべく忘れずにやっていきたい。

本当に厳しく忙しいときには、何かそういう、人間の五感ってのはいつでも多方面でゆるもうとしているんだぞ、という事実を忘れてしまう。

目の前が真っ暗になるというのはなかなかいい表現だなあといつも思うが、どちらかというと、疲れているとき、くさくさしているとき、どうにもつらいときには、脳の中が真っ暗になる感じがある。

元気なときにはあれだけ見えていた「五感の遊び相手」が、まったく見えなくなる。

そういうときに、自分がこうして書いたブログの文章などを思い出せるかどうかが、たぶん、なんとかやり過ごしていくためのカギなのだろうな。

ぼくはときおり、そうやって、自分の目の前(と脳の中)が真っ暗になったときに備えて、あちこちに文章を備蓄している。

シマリスみたいなものだ。心の冬に備えてあちこちにドングリを植えておく。




ドングリならぬきびだんごをもうひとつ食べながら、しばらくブログ編集画面を開いたまま椅子に沈み込んでいた。

まあ、このこと、書いておくかなあ、という気になった。自分のためなので特にオチはないのだが、ひとまずタイトルだけは決まったのでそこから適当に書いてみたら、こういうものになった。大事に雪の中に埋める、そんな気持ちでキーを叩く。

2018年4月17日火曜日

病理の話(191)

病理医は、臓器を肉眼でみて、顕微鏡でプレパラートをみて、診断をする。

いわゆる、「病理診断」を生業としている。

ただ、これだけを振りかざして戦うのは、少々こころもとない。



「病理診断」自体は、他の武門の医者はなかなか修得できない。

基本的に、病理医だけが修得できる技術だ。

だから病理医である限り、一生、プレパラートをみるための知識や知恵、技術などを学び続ける。

確かに強力な武器ではある。

でも、ぼくは、これに加えて、「病理医以外の医者も獲得できる技術」をちょっと押さえておくことが役に立つだろうな、と思っている。血液データの読み方。CTやMRIの読み方。腫瘍学の基礎。そんなあれこれだ。




ドラクエに例えよう。

病理医を「せんし(戦士)」だとする。

プレパラート技術というのは、ドラクエでいうと「せんししか装備できない、専用装備」。たとえば「おおかなづち」とか「らいじんのけん」のようなものだ。

これに対して、他の医者も用いる技術は、「せんしも含めて多くの職業が使ったり装備できたりする、防具やアクセサリー」に相当する。「ひかりのドレス」とか、「ほしふるうでわ」とかね。




当院に後期研修医が来ているのだが、ぼくはこの「専用装備」と「汎用装備」を両方教えようとしている。

もちろん、研修期間にあれもこれもと詰め込むのはよくないのだが、これからレベルをあげていこうというときに、武器だけで世界にほっぽりだすのはちょっと危ないんじゃないかなと思う。

「はかいのつるぎ」だけ持たせて、体は「たびびとのふく」というのはいかにもアンバランスだろう。ほしふるうでわくらい装備させて、大学に返したい。




そんなことを考えながら、日々研修医と接しているうちに、自分の教えている内容が「専用装備」と「汎用装備」だけではないことに気づいた。

ああ、ぼくは、「せんし」の話ばかりしているわけではないようだな。

「パーティ」の話をしているなあ。

自分で自分の話し方に気づいて、ふーむと考えた。





病理検査室の病理医は「せんし」。

しかし、「せんし」ひとりで旅に出るのはドラクエでいうとライアンくらいのものだ。

彼だってホイミン抜きではあっさり死んでしまう。

この世界、ひとりで戦うのには向いていない。だから、病理医は、パーティを組む。



さて、最も頼りになる相方は誰か?

臨床医……を思い浮かべる人は多いと思う。

もちろん彼らはパーティの相棒だ。というか、「せんし」よりも多彩な攻撃方法をもっている。

一般には、臨床医こそが「ゆうしゃ」だろう。




ただ、病理医の旅において、ドラクエと違うのはここからだ。

病理医が扱う臓器は毎日異なる。

胃、大腸、肝臓、肺、乳腺、甲状腺、子宮、膀胱……。

これらは全て、病理医にとっては「異なるクエスト」である。

クエストが違うと、毎回パーティの先頭に入る臨床医が変わる。

胃のクエストでは消化器内科医や外科医。子宮なら婦人科医。膀胱なら泌尿器科医……。

ぼくらの旅では、「ゆうしゃ」がクエストごとに入れ替わるのである。

 *ゆうしゃ は さっていった!

 *あたらしい ゆうしゃ が なかまになった!



「せんし」はじっと考える。

誰が自分の相棒だろうかと。

パーティに常にいてくれて、真に相棒とすべきなのは……。



ぼくは、それは、臨床検査技師だろうと思う。




ぼくは後期研修医に、さまざまな「武器」や「防具」の話をするが、加えて、自分がパーティをくんでいる「そうりょ」である臨床検査技師の仕事を、かなり教えている。

・標本の作製。

・遺伝子検査の外注。

・検体の保存。

・プレパラートの特性。

・染色。

・細胞診。

ぼくは「せんし」であるが、気づかないうちに、「そうりょ」の魔法の数々を、後期研修医にかなり綿密に教えていた。

研修医にいわれて気づいた。

「市中病院では、こういうことも、病理医が学ばないといけないんですね。大学にいたときは、技師さんがやることはすべて技師さんに任せてしまっていて、まったく医師の側では学びませんでした。」



そうだなあ。

ぼくは、「そうりょ」とか「まほうつかい」を、すごく頼るタイプの「せんし」なんだよなあ……。

2018年4月16日月曜日

ずんの飯尾っぽさもある

毎日、スーツのジャケットを脱いで病院の中を歩いている。白衣を着ていないので、いかにもエリートサラリーマンの風貌……には絶対にならない。

基本的に昔のドラマや映画に出てくる学校の先生とか用務員さんのような風貌である。昭和の休日のお父さん(やせ形)でもよい。

なぜだろうと考えた。顔か? 顔はもうしょうがない。けれど少し考えたら理由がわかった。

サンダルだ。

ワイシャツにスーツのパンツ、ノーネクタイ。これにフィットする足下は、革靴だ。革靴しかない。

革靴なら、たぶん、サラリーマンの見た目でいられたろう。

けれどぼくはサンダルだ。

サンダルはだめだ。

一気に学校感が出る。

おもしろいなあと思う。

サンダルをときどき買い換えながら、毎日、「医者として絶妙に違和感のある身のこなし」を模索している。

ぼくは患者に会わないから白衣でいる必要がなく、かつ仕事おわりに学会や研究会に行ったり他院の病理医に会いに行くときに失礼にならないようにスーツでいたい、その両方を満たすには……と沈思黙考の末、昭和のおじさんになっていた。中年ばんざいだ。




このかっこうをしていると気づくこともある。

たとえば薬屋さんの皆さんは、ぼくと廊下ですれ違って、ぼくが会釈をしても絶対に会釈を返してくれない。医者だと思ってないからだろう。「誰と間違ってるんだろうこのおっさん」くらいにしか思っていないに違いない。

彼らもきっと、田舎道で通り過ぎた地元のひとから「こんにちは」と会釈をされたら笑顔で返事するくらいの気のいい人達であろうと思う。けれど、自分の「戦場」である病院内で、医療者というクライアントに気を配りすぎるあまり、見た目ほぼ用務員さんであるぼくには油断をしているのではないかな、と思う。無理もない。

むしろおもしろいのは医者の対応だ。

基本的に常勤医ならぼくのことを知っているから別におどろかない。廊下であえば挨拶もするし世間話もする。

けれど新入社員たちはぼくを見てまず医者だと思うことはない。

ここで差が出る。

初期研修医はぼくが素性不明のおっさんであっても会釈を返してくれる。

後期研修医だと五分五分だ。ときおり、疲れているのか、真下をずっと眺めたままぼくの会釈に気づかないことがある。

おもしろいのは10年目くらいのドクターだ。高確率でぼくを無視する。目があっていても。

そして20年目を越えるとまた挨拶してくれるようになる。

そう、10年目くらいのドクターだけは、なぜかぼくに挨拶を返してくれないのだ。これは8割以上の確率でそうなのである。



医者を10年くらいやると、いちばん、人との距離感がわからなくなる、のかもしれないなあと思っている。

その後、むしろ人らしく戻るあたりが、医者という職業のおもしろさ……。

いや、業の深さなのかもしれない。

2018年4月13日金曜日

病理の話(190)

「顕微鏡をみないとわからないもの」をみて診断するのが我々病理医の役目である。

あらゆるモノを使って、医療者は病気の理(病理)と生命の理(生理)を判断する。そのモノというのは、まず第一に患者の声を聞き訴えを理解する問診(医療面接)であり、次に患者自身が自分では気づけていない変化をことばにする診察であり、血液検査であり、生理学検査(呼吸機能評価、心電図など)であり、各種画像検査、CTやMRIや内視鏡や超音波などである。

目で見て、手で触って、感じて、考えてわかることが無数にある。その上でなお、顕微鏡をみないとわからないものとは何か?



病気を構成する細胞ひとつひとつ。

細胞の中で起こっている遺伝子の変化や、タンパク質の変質・増減。

こういったものの一部は、いかに面接をしっかりし、画像を丁寧に読み解いても、ミクロの世界すぎて到底うかがい知ることはできない……。

できない……。



「ほんとうにそうだろうか?」

「ほんとうに、この病気は、顕微鏡をみない限り、わからないだろうか?」




たぶん、なのだが、病理医の真の役目……というか、仕事のキモはこの問いかけにある。

細胞をみることでわかったことが、次に同じような患者がやってきたときには、細胞をみなくともわかるようにならないだろうか?

これができる病理医は強い。




なんだか胃の中に周囲とは違う模様、周囲より際だってみえる色の違い、ちょっとした粘膜の高低差がある。

はじめて胃カメラで胃を覗き込んだ人は、この変化がなぜ起こるかわからない。

どうしてここだけ周りと違うんだろう?

そこでプレパラートを作り、顕微鏡で、ミクロの世界で何が起こっているだろうかと調べる。

結果、その場所では、本来決まった数だけ存在しているはずの細胞が、際限なく増えていた。細胞数の適度な調整というやつができなくなっているとわかった。細胞が無限に増え続けるような遺伝子の異常があり、これをほうっておくと、増えちゃだめなレベルまで細胞が増えてしまう。

そういうことが、顕微鏡をみて、わかったとする。

「そうかあ、この色調の違い、周囲と比べたときの違和感、少し粘膜が厚くなっているかんじは、細胞が増えているから起こっていたのか」

解釈をする。




次に胃カメラを覗くときには、その人はきっと知識がひとつ増えている。

「こないだとは別人に胃カメラを入れて調べてみたら、こないだ見たのと同じような変化を見つけたぞ」

ここで、人は考える。

「また、前回と同じように、細胞が増えているのではないだろうか」




もしかしたら、細胞が増えているのではなく、炎症で粘膜がむくんでいるだけかもしれない。

もしかしたら、細胞が増えているのではなく、アミロイドと呼ばれる特殊な物質が沈着しているだけかもしれない。

前回と、見た目はほんとうに一緒だろうか。盛り上がっているのは一緒だが、色調は全く同じだろうか。もっと胃カメラの倍率を拡大させて、細かい血管までみられるようにしたら、その見た目は何か違ってはいないだろうか……。

前回よりもはるかに深い考察を加えた後で、あらためてプレパラートを見てみる。

同じか。

違うか。

同じとしたら、どれくらい同じなのか。程度も全くいっしょか、それとも前回の病変に比べるとより派手な変化になっていたりはしないか。




さああらためて言い直そう。

「顕微鏡をみないとわからないもの」をみて診断するのが我々病理医の「第一の」役目である。さらに、当初は顕微鏡でないとわからなかったものを、たとえ顕微鏡がなくても診断に肉薄できるようにするのが、我々病理医の「第二の」役目である。

この「第二」がないと、病理医という仕事はなかなか脳内にしみ込んでこないと思う。

2018年4月12日木曜日

明日は足の爪を切る

抱えている原稿が、「一段落しなくなった」。

少し前までは、「もうこれでしめ切りのある原稿はいまのところひとつもないな」とか、「あと2か月は何も書かなくていいな」ということがあったのだが、さまざまなしめ切りがそれぞれ好き勝手なペースでやってくるようになり、書き下ろしの依頼も加わったことで、時間があれば何か書いておいたほうがいい状態で安定してしまった。

特に苦痛ではないが背負わなくてよかった荷物ではあるよなあとも思っている。




少し前に糸井重里氏が、

「このごろの世の中は、人間に人間以上のものを要求している気がする」

という内容のことを書いていたのだが、これを読んだ一番最初の感想は、

「今の全力をぶつけようと思ったら、今いる自分以上のものを見据えないとだめだからなあ。」

という反論に近いものだった。しかし、少し噛みしめているうちに感想がかわった。

「人間は常にスキルを最大まで使って生きていくようにはできていなくて、ほとんどの人間は人生の大半を人間以下の状態で暮らしている。それでも何か新しいものを得たりしているんだ。」




常に新しいことや今ある以上のものを追い求め続けるチャレンジャーの姿勢と、なるべくのんびりMP温存しながら遠回りのくり返しで少しずつレベルをあげていく週末ゲーマーの姿勢と、どちらが自分には合っているのだろう。どうもぼくはずーっと求道無限(ぐどうむげん)のやりかたをよしとしてきた。でも無限の追い求め方にもいくつかある。

世の中には無限にやることがある。足し算よりかけ算、かけ算よりべき乗のやり方でどんどんスコアを稼いでみたところで、「無限には絶対に追いつかない」。ゆっくり稼ごうが早く稼ごうがいっしょだ。追いつかないものは追いつかない。だって相手は無限だから。

自分は常に自分の最大値より弱い、人間はいつもフルアーマー人間ではない。

寄り道したりぼうっとしたりしながら、それでも新しいものごとに触れて、小さい魔法を新しく覚えて、とやっていくほうが普通なのではないかな、と考えるようになった。




抱えている原稿が、「一段落しなくなった」理由がひとつ増えていることに気づく。

しめ切りがある原稿を急いで仕上げるクセが少し弱くなっている。

今でも、しめ切り間際にがんばることはしないのだが、それでも、「2年先がしめ切りなら、半年後に書くかな」くらいののんびりさを手に入れた。その分、抱えているしめ切りの量が増えた。

そう、ぼくの抱えているしめ切りが増えたというのは、忙しくなったからではない。逆だ。

ぼくはのんびりしたい気持ちが増えたので、しめ切りも増えた。

2018年4月11日水曜日

病理の話(189)

日本病理学会のホームページには、「市民の皆様へ」と称した文章がいくつも載っている。



いっぱい載ってる。

これらのうち、「教えて!病理のはなし」はマンガになっている。おっ、と思った。


ほんとはこういうのは許諾を得て転載しないといけないんだと思うが、怒られたら謝ろう。いちおう日本病理学会の「社会への情報発信委員会」にも所属しているので、活動の範囲で認めてはもらえるかなーと思う。

このマンガは絵がかわいい。分量もほどよい。「おっ、なんだなんだ?」と目を引く。誰が描いてくださったのか存じ上げないが、ツイッターにあげたらけっこうRTされたろうなあ、と思う。




その一方で、ほかの「病理診断について」とか、「病理医とは」といった項目は、なんだか字ばっかりだ。

ぼくはたぶん世の中の99%の人よりも病理に詳しく、興味があり、愛着を持っており、とにかく病理と名の付くものは全て読んでおきたいオタクだが、それでも「読みづらい」と思った。

なぜ読みづらいか?




それは、ここに書かれていることがいずれも、十分な情報量をもち、説明「すべき」内容を網羅して、正確な表現で、丁寧に書かれているから、である。

悪くないようにみえるだろう? けれどもこれでは、読む側のハードルが高すぎる。

読みやすい文章ってのは、情報量が十分とは限らず、説明「されたい」内容だけをピンポイントで示し、多少の誇張を許容しながら、丁寧に書かれているもの。

それじゃあだめだろ、学会のホームページなんだから。

科学は、第一に、正確でなければ!

うん、そういう判断はよくわかる。

けれど、自戒をこめてあえていう。

  病理医のいうことは正確で、わかりづらい。





フラジャイルというマンガ・ドラマがあらわれるまで、ほとんど誰も病理医に興味を示さなかった理由がわかる。

網羅しすぎ。厳密すぎ。

病理だけではなく学術全般にいえることかもしれない。

だからぼくは今まで、病理学会の広報活動をあまりリンクで貼ることができなかった。




ところが、おかたい病理学会はついにマンガを導入した。それも、会員が趣味で書いたレベルのマンガではなく、フルカラーできちんとコマ割りされた、マンガ然としたマンガ。セリフが多いのはご愛敬だ、とにかく最後まで読ませる力がある。たいしたもんだ。




ぼくは学術をめぐる「広報」についての意識がかわってきたのかな、と感じる。

ぼくが書くとおかしいかもしれないけれど、病理医というのはかなり「寿命の長い仕事」で、学会にはそうとうな高齢者もかなり強く影響力をもっている。ほかの臨床科に比べると、現役の大エースの平均年齢は10歳くらい上かもしれない。

そんな病理学会がマンガを普通に導入していたことを手放しで喜んでいる。

自分たちが言いたいことだけを言うのではなく、読み手が読みたいものを提供しようという気概を感じる。




今ぼくは、若い医者が病理学会にくるとけっこうおもしろいことができるのではないかなと思いはじめた。

ツイッターをはじめたころは絶望のほうが強かった。

この業界、ほんとに大丈夫なのかいな、と思っていた。

やってることが高度すぎる。日本の知性の最上位みたいな人たちは安心して病理医になって、ぼくみたいな場末のザコを駆逐してくれるだろう。

けど、天才数人だけで病理学会を運営するってのは物理的に難しいだろう。

今のやり方だと、「大天才ではないかもしれないが、ふつうの医者として仲良くやさしくやっていけるタイプの人」が、病理の世界に入ってこられないんじゃないかな、なんて勝手に心配していた。




なんだかその心配はぼくの勝手な妄想だったように思えてくる。

次の目標として……説明を全部マンガにしてほしい気もするが……。やはり、マンガというのは一部の人にとっては「ふざけている」ように思われるかもしれない。

ここはひとつ、「まじめな文章をより読みやすくする作業」をすべきかなあ、と思う。

文章を書き換えるのもいいかもしれないけど、ホームページに載っている文章はどれも厳密で真摯だし、無駄にするのももったいない。

そしたらどうするか。




より商業的な目線をもっているウェブサイトデザイナーに、ホームページの一部をアレンジしてもらったらいいんじゃないかなあ……。

まあこのこと自体は3年くらい前に考え付いて、それからツイッターでちょろちょろ、「読ませるウェブサイト」を作っている人気ライターや編集者のことを追っかけてはいたんだけど……。

そろそろ企画の出し時じゃないかなあ、とか、そういうことを思っている。どうも、日本病理学会・社会への情報発信委員会です。