2017年9月26日火曜日

ちんこの話ばかりする人

腰が痛くなってはじめて、「背中にクッションを入れるありがたみ」がわかったよ。

こんなところに縦にモノを噛ませてどれだけ役に立つんだよ、とぶっちゃけ思っていた。

けれど、背中の湾曲部にモノを置くことで、姿勢が自然と矯正されて、腰回りの筋肉に対する負担(これは主に、自分の体重を支えるときの負担だと思う)がぐっと軽くなる。

普段、気づかずに腰にダメージが蓄積していた状況に、クッションひとつで気づくことができて、クッションだけでそれを回避することができるんだ。



ああ、そうかそうか、ありがてぇもんだなあ、みんながやってる意味がわかったわかった。



インスタグラムをやっていないのだが、あれ、何がおもしろいの? そう言おうとして、ぐっと押し黙った。

きっとインスタだって、やるきっかけを得た人、何が気づきがあった人にとっては、生活の「姿勢」をほどよく保ってくれるような何かがあるんだ。

それは腰痛になる前のぼくが気づかなかったクッションかもしれない。

かけうどんに一味を入れたらうまくなるなんて、考えもしていなかった。

グレーのシャツにグレーのカーディガンを合わせても、バッグで色を与えればおかしくないんだよ、と教えてもらった。

わさびが食べられるようになったら寿司が何倍もうまくなった。




「なんでそれをやっているのか意味不明」

「何がおもしろいのかわからない」

みたいなことを言うときは、きっと、そのものがどのように役立つのか、どのあたりがおもしろいのかという路線で考えても、わからない。

脳を使うとき、「なぜだろうのメソッド」だけでは、うまくわからないことがある。

そういうときには、遠回りなようでも、「なぜだろう」を考える前に、「どういう人達がそれを喜んでいるのだろう」と考えた方が、結局は答えに近くなるのではなかろうか。




ツイートでにゃーんと鳴き、AAのうさぎをふぁぼる人。

何がおもしろいのか。何の役に立つのか。

ではなく。

「どういう人が、それをやっているのか」

を観察しよう。




たいがい、おっさんだった。なるほどな。と思う。いい勉強をしている。

2017年9月25日月曜日

病理の話(124)

長いメールが届いていた。ある内視鏡医が記したものである。

まるで古典文学を読んでいるかのような気持ちにさせるそのメールには、現在、自分が「病理の手法」を用いて、ある疾病の発生メカニズムを明らかにしようとしているのだ、ということが書かれていた。

「だから君にも手伝って欲しい」

ではない。

「こんなことをやっているんだ。どうかな、おもしろいよな。どう思う? いや、感想だけ聞かせてくれればいい」

そんなニュアンスである。





「病理の手法」





ある疾病を、臨床医はさまざまな手段で見る。

「臨床の手法」を使って見る。

画像検査だったり、血液検査だったり、患者の訴えだったり、統計学だったり、さまざまな手法によって、この疾病はどんな形をしているのだろうか、と探る。

たとえばそれが、「縦に引き延ばしたホームベース」のような形に見えるとする(あくまで例えである)。


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こんなかんじ。

でも、この5角形のうち、先の尖った部分が重要なのか、側面の柱の部分が大切なのか、底辺の部分が意味を持っているのか、臨床の手法だけではわからない。

彼らは、だから、顕微鏡を用いたり、免疫組織化学という手法を用いたり、遺伝子解析を用いたりして、「病理の手法」で疾病をさらに探ってみたい、という考えに至る。



そしたら、この疾病はこのように見えたのだという。



……まるで違う形だ。そこで臨床医はピンと来る。

「ああ、これは、おそらく本当はエンピツの形をしているのだ」




エンピツを上から見れば丸くなる。

横から見れば先ほどの5角形になるだろう。

見る手法、すなわち見る角度が異なれば、見えてくる図形がまるで変わってしまうことはある。



そこで臨床医はぼくにメールをしてきたのだ。

「エンピツだと思うんだよ。よさそうだよな。あってるよなこれ」

ぼくは納得をする。病理医でなくても病理の手法は用いることができる。彼のやっていることはぼくから見ても極めて妥当だ。

先生、すごいですね。

彼は鼻高々となり、さらに謙虚さを増して学問に没頭していく。





……こんなことがよくある。ぼくは時折、何も自分で解析していない分野において、単に「聞き役」にさせられることがある。

ホームズにとってワトソンは必要ないと思うのだが。

ホームズたちは、ワトソンに話し掛けることで、自分の頭を整理しているのだろう。




なお、ぼくはメールに、このように返した。

「先生すごいですね、病理医だけでは絶対に見えてこない視点です。

なお、○だけじゃなくて、□のこともあるんですよ」




臨床医はピンとくるのだろう。「あっ、四角いエンピツってあるよな!」と。

彼の筆箱が途端に多彩になり、彼は驚喜して、そうだ、ロケットエンピツやシャープペンシルなんてものもあったなあ、と思いを様々に巡らせていく。




自分を名探偵になぞらえるのは楽しい。

ただ、ワトソンの何気なく発したひと言、それは必ずしも論理的である必要はないが、何かの世界でずっとやってきた経験が導く不思議な直感であればよく、その「名状しがたい直感」が、探偵に新たな視点を与えることがある。

病理医はときにワトソンであってもよい。




そういえばIBMが診断用に提供しているAIの名前はなんと言ったかな、と、ぼくが思ったのは、この記事を書く「前ではない」。

途中なのだ。

そういえば、と思った。単なる偶然である。

けれど、単なる偶然じゃないのだろうな、と、半ば確信している。

2017年9月22日金曜日

受信者でいればいいだけの話

書いたことがある話題を、延々と書いていた。

たった今消した。




「病理の話」には、そういう「二度目の記事」がいくつかある。でも、ま、病理の話ならば、同じ内容を何度か書いても許されるんじゃないかな、と思う。なにせ世の中には病理の話が少なすぎる。多少しつこいくらいでもいいんじゃないかな。いちおう切り口は変えておくからさ。

けれど、病理の話の合間にこうして「箸休め」として書いている記事の方は、別である。「病理の話じゃないほう」で、自分が前に触れた話題をもう一度とりあげるのは、とても恥ずかしい。

まず、同じ話題を二度語ってしまうというのは、ぼくの場合、基本的に「無意識」である。

よっぽどこれが言いたかったんだね、前にも言ってたもんね、なんて指摘されて、はじめて気がつく。ああ、やっちゃった。

「うちのおじいちゃん、酔ったら同じ話を何度もするのよ」みたいなやつじゃん。

「課長が新人に必ずする訓話があってよォー」みたいなやつじゃん。

恥ずかしい……。




この不幸な事故を減らすためにはどうしたらいいだろう。




ここはひとつ、「このブログでは、○回目には必ず□の話をします」と宣言してしまう、というのはどうだ。

ぼくがつい何度かしゃべってしまいがちな話題はいっそシリーズ化してみる、というアイディアだ。

……。

同じ話題を同じ展開で同じオチまで持って行く快感におぼれ、しかも前に一度披露していることを忘れてブログに平気で複数回同じ話題を書いてしまう人間が、「○回目」の数字が増えるたびにちょっとずつオチをずらしておもしろいことを言う、なんて芸当ができるわけがない。

破綻が目に見えている、やめる。




「してやったり系のネタ」を言おうとする欲を捨てよう。

「うまいこと言う人」になりたがる欲を捨てよう。

狙い球を絞るのではなく来た球を打つようにする。

先の先ではなく後の先を取るようにする。

これならどうだろう。

……。

実際、「関西方面のお笑い」にうるさい人は、これを徹底している。

ネタは毎回違うが構造が毎回同じ、という関西のギャグ的な空気はそうやってできている。

破綻はしないだろう。安心感はある。

けれど、道民は関西人には決してなれないのだ。

なれないんやで。ごめんがな。




一度言ったことを忘れない人間でいたいけれど、もう、なんだか、無理な気がする。

毎回おもしろい話をネタ被りなく披露できるおもしろおじさんでいたいけれど、狙う時期を逃したし、方向性も間違っている。

そうか、そうなんだ。

きっと、ネタ被りをおそれ、自分から出てくる話題の少なさにおびえ、おもろないんやでんがなとか言われるのがつらいから、「芸能とか社会情勢の短報に飛び付いてリアクションすること」が発信の主軸になってくるんだ。

ああ、自分から何かを発信するって、難しいんだなあ……。





ちなみに人がなぜ芸能とか社会について反応したがるのかについては、以前にもこのブログで書いたことがあったはずです。

2017年9月21日木曜日

病理の話(123)

ありとあらゆる医者は、タテマエ上、学生時代にほぼ全ての臨床科のことを「習っている」。

これは、義務教育の際にすべての小中学生が、日本の歴史について「習っている」というのと同じ構造だ。

習っている。

それだけである。




医学生は卒業後、まず第一に、手先を動かす訓練をする。

現場でここぞというときに、体が硬直しないように。

電子カルテの書き方。入院患者に対する基本的な対処法。外来での事務処理。

急変した患者の対応。救急外来での最適化された行動順序。

医師に求められている数々の手技。挿管、血液ガス採取、大血管へのカテーテル挿入。

「脳よりも先に体が動いてくれないと話にならないよ」という、現場からの期待が大変はげしい。

脳は置き去りにしてでも、身につけなければいけない。



脳に待っていてもらっている2年間で、「日本史」のことは、ほとんどすべて忘れていく。

どれだけしっかり勉強していても、ほとんどすべて忘れる。

ただし、「ほとんどすべて」だ。すべてではない。

自分が将来にわたって使い続ける知識については忘れない。



研修医は、自分が日本史の中で、「どの時代」を勉強したいかを見据えている。

 縄文時代の第一人者になるか。

 室町時代なら誰にも負けない人になるか。

 江戸時代の中期を学ぶか、末期を学ぶか、あるいは江戸時代成立前後を学ぶか。

 日清戦争のなりたち。

 田中角栄のやったこと。

これらは同じ日本史と言ってもまるで違うだろう。

田中角栄の業績に詳しいからと言って縄文土器を見極められるわけがない。

たとえば消化器内科と整形外科というのは、それくらい違う。




小中学生のころ習った「日本の歴史」だと、みんな、どこを一番覚えているだろう?

最初の方で学んだ、「前方後円墳」とか、「聖徳太子」とか、あのへんか。

多くのマンガやドラマで描かれている、「戦国時代」とか「織田・豊臣・徳川」とか、そのへんか。

ザビエルを思い浮かべる人もいるだろう。

平安京だけは忘れない人もいるに違いない。



循環器内科とか救急というのは、ザビエルとか平安京みたいなものだ。

昔習ったなあ、というのを強烈に覚えている科。

頭に残っている科。

「ぼくは日本史に詳しいよ」と人に言って回るときに、説明のしやすい科。




じゃあ病理は?

うーん、そうだな。少なくとも、特定の時代とか、特定の人物ではない。

「日本の文化史」とか。

「日本の外交史」とか。

何かひとつの視点で、すべての歴史を俯瞰しているようなイメージ。

「どこかの時代」を学ぶのではなく、すべての時代について、ある決まった視点でまとめ直すような感じ……。






医学生がときどきツイートしているのをみる。

「病理の試験めちゃくちゃきつい、将来病理医にだけはぜったいなんねー」

「顕微鏡実習マジで意味無い、病理は進路としては消えたな」

これは、学校で日本の歴史を学んだ小学生が、

「年号覚えられない、社会はきらい」

「歴史資料館の見学行ったけどちっともおもしろくない、歴史はつまらない」

と言っているのに似ているなあと思う。




そりゃあつまらんだろう。

病理が「そういうもの」だと思っている間は、つまらんだろうな。



昔、社会に苦労した子供達の中には、たまに、大人になって、もはや社会の勉強なんてしなくてもいいんだよというポジションについてから、ある日、大河ドラマみたいなちょっとしたきっかけで、

「あっ、今なら勉強できるかも、今なら社会がおもしろいかも」

という気になる人がいる。




病理というのはそういうアレだと思うんですよ。大河ドラマが好きなら病理が嫌いなわけないんだ。

2017年9月20日水曜日

カツセマサヒコを倒す

しゃべくり007を見ていた。

最近のイケメンや美女は、バラエティに出ると、

「実はこんな変なところが!」

とか

「意外とオタク!」

とか

「こう見えて爽やかではない!」

みたいにいじられている。

いじられて、イケメン本人も嬉しそうに笑っている。




たしかに。

かっこいいとか足が長いとか顔が小さいなんてことを前面にプッシュされても、ぼくはすぐに嫉妬してしまうから。

こんな完璧超人にも実はこんな弱点が、というところを笑えるスタンスでいじってくれた方が楽しく見られる。

世間的にも伸びるしバズる。



いじりと自虐を、いじめと他虐にならない程度にまぶした番組じゃないと、ぼくはチャンネルを変えてしまうだろう。



実際、いいものをいいと言い続けるだけで人の耳目を集めることは、極めて難しいと思う。

いいものをいいと言い続け、歩き回って人々の肩を叩き、誰かの横でうまそうにメシを食って幸福なため息をつき、よさみよさみ尊い尊いと念仏のように唱え。

それ「だけ」で、ものの良さを伝えて幸せを広めていける人。

いるにはいる。

なんと力強くやさしいことか。

……ぼくらみんなに、できるものだろうか?




いいものをいいと言い続けるだけのことを続けている人からは、なんというか、NHKのにおいがする。

すこし野暮ったいというか。

下品なことは言わないし。

大音量のCMもかからないけれど。

大声で笑うこともない。

スーツで、七三で、笑わない。



……はあ、参ったな。

ぼくは、「いいものをいいと言い続けている、シンプルな、優しい人」にすら、レッテルを貼ってしまっているようだ。





NHKに巨乳のスポーツキャスターが出たと言ってタイムラインが盛り上がっていた。

テレビ東京がニュース速報を出したと言ってタイムラインが怯えていた。




「いいものをいいと言い続けるだけ、それがシンプルでかっこいい」と思い込んでいたはずのぼくの脳にも、いくつかの付箋が貼られており、いくつかのしおりが挟まっていて、偏光フィルターとブルーライト軽減グラスがかかっている。





とりあえず無印良品を着こなすイケメンライターだけは滅ぼそうと心に決めているぼくの、目に、脳に、こびりついてしまったレッテル。


とりあえずカツセマサヒコだけは殴るけれど、その後のことはもう少し、考えていきたいと思っている。

2017年9月19日火曜日

病理の話(122)

人体を守る仕組みのひとつに、

「リンパ球がばいきんを攻撃する」

というシステムがある。

言葉で書くと簡単だ。

たとえ話をするならば、リンパ球は警察官で、ばいきんは犯罪者である。



けれど、リンパ球には「脳がない」。

細胞1個だ。脳も手足もない。単なる「まるいつぶ」である。

そんなつぶが、どうやって犯罪者を認識して、どうやって倒すというのか?

そもそも、まるいつぶにそんな警察官みたいな役割が果たし得るのか?



もともと受精卵という1個の細胞が、分裂を繰り返して、何兆という細胞にばけて、今のぼくらの体ができている。

その一部を、わざわざ「まるいつぶにして」、「警察官の役割を担わせて」、「犯罪者の顔を見分ける能力をあたえて」、「犯罪者を逮捕したり、直接罰したりする能力を与える」。

こんな複雑な命令、いったいどうやって与えているのだろう。



人体の細胞がどのように働くかを、適材適所、適切なタイミングで命令しているのは、ざっくりと言うならば、

「DNA」

によって記載されたプログラムであるという。

気が遠くなる。

いったいどれだけ精巧なプログラムを書いたら、こんな複雑な仕事ができるのだろう?




……と、このような記事を書いて、ブログにアップしているぼくは、ふと気づく。

このブログ作成ページだって、プログラムで書かれているわけだよね。




コンピュータプログラムはご存知の通り2進法だ。

0(電気を通さない)と1(電気を通す)の2通りを組み合わせて、無数の言葉を生み出す。

0と1だけで、日本語を自由に表示させたり、行を変えたり、ブログのデザインを決めたり、リンクを飛ばしたり、なんでもやってしまう。

さて、プログラマーは、実際に「0と1」を使ってプログラムを書いているのだろうかというと、確か、そうじゃなかったはずだ。

ぼくはあまり詳しくないけれど。

「言語」を使っているんじゃなかったか。

0と1だけでプログラムを記載するわけじゃなくて、もう少しだけ人が使いやすい言葉に置き直して、プログラムを書いているんじゃなかったかな。

C言語がどうとか、ジャバがどうとか、あったよ、確か。




では、人間の体をコードするプログラムはどうやって書かれているか。

4進法で書かれているのだ。

A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)。

0と1の2進法よりも、組み合わせが多い分、複雑なプログラムが書ける。

けれど、このATGCだけを使ってすべてのプログラムが書かれているわけではない。

プログラマーが、キーボードで010010110111010と入力してプログラムを書いたりしないように。

「生命をプログラムしたプログラマー」も、ATGCだけでプログラムを書くのはやばいと思ったのだろう。

ATGCを3つずつ組み合わせ、「言語」を用意した。

「AGC」のセットを、「セリン」という物質に対応させる。
「GAA」のセットを、「グルタミン酸」という物質に対応させる。

ATGCの4進法でそのままプログラムを書くのではなくて、ATGCから3つずつの組み合わせをつくり、これらを20種類の「アミノ酸」という物質に対応させた。



いきなり4種類の文字だけですべてを書こうとするのではなく、4種類の文字の「組み合わせ」(コドン)を言語として設定。

コドンAGCがプログラムに出てきたら、それはつまり「セリンという部品をここにおいてくれ」というサイン。

コドンGAAがプログラムに書かれていたら、「今度はグルタミン酸をここにおいてくれ」というサイン。

つまり、AGCGAA と書かれていたならば、セリンとグルタミン酸を隣同士においてくっつければいい。




4進法のプログラムを3文字ずつ読みながら、20種類のアミノ酸を次々と並べていく。

アミノ酸がつながっていく。

つながってできたものを、「タンパク質」と呼ぶ。聞いたことがあるだろう。タンパク質。



細胞というのは結局のところ、すべてこの「アミノ酸を連ねてできたタンパク質」によって作られていると考えてよい。

アミノ酸は20種類のレゴブロック。

20種類あれば、たいていの形をつくることができるだろう。レゴで作った建物とか乗り物がタンパク質に相当する。





この仕組みを細かく研究した人が、ある日、思った。「生命すげぇな、4進法でなんでもやっちゃってるよ」。

そして、こんなことを考えた。

「パソコン上の仮想空間に、4進法で記載される『単純な法則』を用意する。1秒あたりに1回、その『法則』が作用して、『ある図形』の形が変わるようにプログラムする。パソコン上で何十億年という時間を再現したら、その図形は”生きつづける”だろうか?」

生きつづける、というのはたとえ話だ。

「ごはんをたべて、周りに影響をあたえながら、ときに敵と戦い、繁殖をして、個体が死んでも種族としては生き続ける」。

コンピュータ上の図形を、あたかもそのように「みなす」。

コンピュータ上で放っておいてもうにょうにょ動き続け、形を変え続け、存在しつづけるかどうか。ほんとの生命ではない。遊びみたいなものだ。

「ライフゲーム」と呼ばれる。




DNAが4進法なのだから。

ゲームとはいえ、「4進法」はライフを生み出す可能性がある。

コンピュータ上で膨大な時間を再現すれば、単純な「ライフ的なもの」は作れるのではないか?




このライフゲームはあまりうまくいかなかった。

4進法だけだと、何度仮想空間を設定し直しても、途中で生命としての「複雑さ」が現れてこず、バリエーションに限界が生じて、結果、不測の事態に対応できずに、「ほろびて」しまう。

足りなかったので、ためしに5進法にしてみた。

文字を増やせばバリエーションが多くなるだろう、という発想。しかし、今度は、「複雑すぎて」、図形が途中でうまく変化しなくなってしまった。



机上の空論とは便利なことばである。

本来、「○進法」という概念には、小数点はそぐわない。

0と1での2進法というのはわかる。ATGCの4進法というのはわかる。

けれど、「4.2進法」と言われたって、想像がつかないだろう。

けれど、このライフゲームにはまっていた学者は、思った。

「4進法だと複雑さがたりない。5進法だとカオスに陥ってしまう。だったら、4.2進法くらいがちょうどいいんだけどなあ……。」

4.2文字で記載するというのは意味がわからないのだが、ためしに、やってみた。




すると、うまくいってしまった。図形はいつまでも、うにゃうにょと変化し続けて、それはまるで新種のアメーバかなにかを見ているかのようだった。

「え……? どういうこと……?」




生命の複雑さを記載するには、どうも、単なる4進法では複雑さが足りないらしい。

人間って、ATGCの4進法でプログラムされているはずなんだけどなあ……あっ!




学者は思いついた。

DNAはATGCの4文字だけど。

RNAになると、AUGCの4文字にかわるんだよな。確か。

T(チミン)が、なぜかU(ウラシル)と対応するんだ。

これ、文字を「ちょっとだけ増やしている」のかもしれない。



それに、DNAにはほかに「修飾」とよばれるシステムもある。

メチル化とか、アセチル化とか。文字にかざりが付くのだ。

これも、文字を「ちょっとだけ増やしている」のかもしれないな。




生命って、4進法じゃなくて「4.○進法」くらいなのかもしれない……。




(一部ぼくが適当にいじっているのでフィクション化してますが、そのような仮説が提唱されたことは実際にあるそうです。)

2017年9月15日金曜日

プロ野球選手がゲルマニウムのネックレスをする理由がわからない

ファッチューチョン、だったっけ。

あってた。佛跳牆。

バイブル・めしにしましょう(小林銅蟲)の3巻に乗っていた。

いわく、「山海の珍味を壺にぶちこみ、壺ごと蒸し煮する高級中華料理です。主な特徴として、値段に天井がない」。

乾物をはじめとする中華の食材をこれでもかこれでもかと大量にまぜこんで、力で蒸し煮にしたスープ。




「個々の食材の特徴は失われて巨大なうまみの塊が流れ込んでくる」

「味の余韻がめっちゃ長い」

「色々な生命の意識が入ってくる」

のだという。



人間の体ってこうだよなあ、と思った。

もはや何が元になっているのかわからない、味の塊。





昔、化学で習った。「緩衝液」という言葉を。

緩衝液というのは、多少の酸や多少のアルカリをぶちこんでも、pH(ペーハー)がほとんど変わらない液をいう。

酸を入れてもばんばん中和されてしまい、あまり酸性に傾かない。

アルカリを入れてもじゃんじゃか中和されてしまい、そんなに塩基性に傾かない。

そういう液体があるのだという。



人間の体ってこうだよなあ、と思った。

もはや何を入れてもそうかんたんにはぶれない、不屈の緩衝液。



生命というのは、無数の足を持つやじろべえである。

あまりに多くの要素でなりたっているために、一部の足を重くしても、一部の足をとっぱらっても、もはやバランスがあまり変わらない。

そんなやじろべえでいることに、メリットがある。

今日はごはんばかりを食べ、明日はバナナばかりを食べ、明後日はビールばかりを飲んだとしても、1週間程度ではさほど体調が悪化しない、ということ。これは、生存していく上ではとてつもなく大きなメリットなのである。

ある日は果実を手に入れた。

ある日はマンモスの肉を狩れた。

ある日は水しか飲めなかった。

それでも人は生きる必要があった。

それでも人間は「そのまま生き続けて」いなければいけなかった。

いつ、何が手に入るかわからないからこそ、生命はファッチューチョンでなければいけなかった。生命は緩衝液であることを選んだ。生命は無数の足を持つやじろべえになった。




「このドリンク一個でとても健康になれる」なんてことはあり得ない。

「このストレッチひとつで人生が変わる」なんてこともない。



すべてはバランスであり、るつぼであり、個々人がより分けて摂取したり排除したりして動かせるほど安直なシステムではない。






……ところで。

西洋医学というのはおそろしい。

この薬1個で、病気が治る、というのをやっているのだから。

無数の足を持つやじろべえがどちらかに傾いたとき、それを何かひとつのおもりで直そうとしても、普通は直るものではない。

でも、西洋医学は、それを直してしまう。

まるで奇跡ではないか?



西洋医学を奇跡にしないために、人は、統計をとる。

必死で臨床試験をやる。

万が一! たったひとつの物質が、人間のバランスをもとに戻してくれるかもしれない!

そういうアイディアをぶつけて、ぶつけまくって、生き残った「奇跡の一錠」だけが、西洋医学には採用されているのだ。




奇跡を確認し終わった結果が今の医療だと思えばいい。

ぼくらはいつも、奇跡に囲まれて生きている。

慎んで、学んで、ラッキーに感謝する。

そして、奇跡をオカルトにしないでくれた、統計学にもそっと手を合わせる。