2017年5月26日金曜日

かたよりも普通にこしまわりが好き

たとえば、こういうぼくという人間に話しかけてくる人は、多くが「ぼくに話しかけるのが苦にならない人」である。「ぼくに話しかけるのが嫌で嫌でしょうがない人」は、そもそも話しかけてこない。

なんらかの理由でぼくとの会話をこばむ人……それはぼくの年齢や性別によるものかもしれないし、何かからにじみでる信条をおもんぱかられているのかもしれないし、あるいは職業とか人種とか、単に見た目によるものかもしれないが、そういうものをはなから受け入れられない人は、「平和な文脈」でぼくと会話をすることがない。

だから、ぼくが「他人との会話」で得る経験には、さいしょからカタヨリがある。




学生や研修医の教育をしている人にありがちな言動として、「最近の学生は~」論が挙げられる。「近頃の若い人間と話をしていると、~~なところがだめだ」と言うエースやベテランを、目にすることが多い。

こういう、若い人にダメ出しをしたがるタイプの指導者に、わざわざ会話を「してあげる」若者、という時点で、かなり偏っているのではないか、と思う。

「教育の現場で、指導相手を分析してこきおろすのがクセになっている人」なんて、ぼくだったら、頼まれても会話はしたくない。必要に迫られて話すことがあるとしても、要件だけやりとりして、さっさとその場から離れたいと思う。

若者を批判する指導者が、「若者との会話」で得る経験なんて、偏っているだろうなあ、と考えている。




ぼくは日ごろ、そういう「若者を指導しててこんないやな目にあったよ」という指導者たちの話を、しょっちゅう聞く。

ぼくがそういう人たちと「会話をしやすいタイプの人間」なのかもしれない。

ほんとうは、世の中には、もっと「若者を大切に育てていくタイプの指導者」も、いっぱいいるのかもしれないが、ぼくが会話する相手はたいてい、「若者をダメだダメだと否定していくタイプの指導者」なのだ。

そうか、うーん、偏っているんだろうなあと、結論が見えてくる。

2017年5月25日木曜日

病理の話(82)

欧米人、特に米国の医師と、胃や大腸、食道などの消化管の病気について話すとき、日本人が気にかけていることがある。

「アメリカのドクターだ。こんにちは。うーん、きっとこの人も、『日本人は、がんという言葉を過剰に使いすぎている』と思っているんだろうな……」

まるで呪文のように唱えて、「考え方」を向こうに適応させようと努力する。

「まだ人を死に至らしめるまでに5年も10年もかかるような、粘膜の中にとどまっている腫瘍を、『がん』と名付けるのは日本人だけだ。欧米では、こういう病変のことを、がんではなく、異形成(ディスプラジア dysplasia)と呼ぶ。もし国際学会で、安易に『粘膜内がん』なんて言葉を使うと、狭い日本でしか通用しない言葉を使う鎖国地域の人みたいに思われてバカにされる。いやだなあ、気をつけよう」

日本人は国際学会で、とてもナイーブである。うちはうち、よそはよそ、そうはいきませんのよ。




ただ、しっかりと話を聞いてみると、当の欧米人は、「ディスプラジア dysplasiaはがんじゃない」とは言うのだが、「ディスプラジアはがんと違うから、対処しなくてよい」とまでは言っていない。

「ディスプラジアは将来がんになる病変なのだから、場合によってはきちんと対処することで、将来のがんを防止することができる」と言っている。

日本人は臆病で、欧米人はバッサリ、というイメージがあるのだが、実際、欧米人もそこらへんはきちんと思考を尽くしているし、有名な教科書にも、よく読むと書いてある。




医療のゴールをどこに設定するか、という問題をきちんと考えなければいけない。

「欧米人ががんじゃないという病変を、日本人はがんと呼んで大騒ぎする」という言葉は、医療のゴールを「定義」とか「名づけ」に置いた場合の考え方である。

問題は、そこじゃないように思う。



・学者とか医者がこだわることばとか定義うんぬんじゃなくて、将来患者がどうなるのか、それを少しでもよい方向にもっていくためには何が必要なのかこそを、見極めるべきだ

・がんなのか、がんじゃないのか、という言葉の問題で思考停止してしまってはいけない

・ただ、人間は情緒の生き物であるから、自分が将来どうなるかに加えて、自分が今どのような状態にあるのかをきちんと名付けてほしいという欲求だって、しっかりある

・さらに人間は社会の生き物だ。ひとたびがんと名前のついた病気をもつ人は、社会によって保障されなければいけない。だから、「名づけ」を無視はできない

・おまけに人間は科学の生き物だ。遺伝子とか統計などの多角的な情報に基づいて、がんとそれ以外がどう違うのかをきちんと決めていくことには学術的な意味もある

・「がんじゃないから安心だ」というのは呪いのような言葉だ。「がんじゃないのに治療するのは過剰だ」が真実かどうかも、ケースバイケースで考えてみないといけない

・欧米人は言うほどバッサリものごとを切っているわけではなく、きちんとあいまいな部分を思考に組み込んだうえで、「そんなことはぼくだって考えたよ。けど、どちらかに決めないといけないならこっちだ!」という発信姿勢がはっきりしている

・ぼくらの考え方にもいいところがある。彼らの考え方にも興味深さがひそんでいる。欧米人もまた対話を望んでいる。ぼくらはそのやり方を理解したうえで、共感するしないに関わらず、立場を打ち出して議論をしていくしかない






「そんな簡単なものじゃないんだよ」という言葉がきらいである。

ものごとを単純化した先で、ぼくらの情緒が動くことはしょっちゅうあるからだ。

けれど、

「誰かが簡単に批判したり、臆病になったり、後ろめたい思いをしたり、怒り出したりする部分を、もう少し丁寧に掘ってみると、いろいろ見えてくる」

ということは、あるのだと思う。




今回の話はカギカッコが多すぎてごめんなさいね。

2017年5月24日水曜日

アップデートが終わんないところだったよ、あっぷでーなぁ

Windows updateを眺めているのだが、かなり時間がかかっていて、もののブログなどを調べてみたところ、アップデート時にはパソコンの中をチェックする作業が入っているようで、パソコン全体を確認してからインストールがはじまるために時間がかかるのだ、などということが書いてあった。本当なのかどうかは知らない。

しかし、アップデートのたびに自分をチェックするなんて、人間にはとうていできないワザである。

新しいニュース、新しい人間関係、新しいルール、新しい方針が目の前に降ってくる度に、自分の信条、過去あったこと、気質などをいちいちチェックしてから適応しようとする人が、どれだけいるというのか?

そう考えるとWindows updateというのは誠実だなあ、と、すっかり止まってしまった更新画面を眺めながら、思った。



知識のアップデートというのは大変だ。

あるときに自分が見つけた知識が、その後うそだった……うそまではいかないけど、大げさだった、そこまででもなかった、なんてこと、しょっちゅうだ。

ただ勉強するだけではなくて、自分が常識と思っていることが妥当なのかを検証しなければいけない。

けれど、ぼくらは、しばしば、知識のアップデートにおける「検証」をないがしろにして、ただひたすら情報を読みあさっていくことまでで満足してしまうことがある。



20年ほど前、アメリカでは「高タンパク質、メガビタミン、スカベンジャー物質の接種。以上が健康にいい」という説が流行ったそうだ。ぼくは、高校の時に、このフレーズを友人から聞いた。剣道部だったぼくは、筋トレの効率をあげるためにこれらを取り入れられないかと考えてみたのだが、高タンパク質はともかく、メガビタはデカビタCを飲むことでしか達成できなかったし、スカベンジャーに至っては何をとればいいのかわからなかった。

高タンパク質は、現在流行している「糖質制限」とも似た概念だったのかもしれない。メガビタミン(サプリでビタミンをとりまくる)は廃れてしまった。スカベンジャーってのはそもそもなんだったんだ? 今でもわからない。

でも、最初にこれを聞いた高校生のぼくは、「アメリカほど訴訟にうるさい国で流行ってるからには、きっと根拠があるんだろうな」くらいにしか感じていなかった。



今ならわかる。本当に体にいいこと、本当に社会にとっていいことが、「高校の友人から聞こえてくるお得情報」のレベルでしかぼくにやってこないなんてこと、あり得ないのだ。

本当にいいことなら、社会がもっとワッショイワッショイ推進して、公的機関もがっちり金をかけて回収しに回る。

「おばあちゃんの知恵袋」が役に立つのは、おばあちゃんの知恵が家庭で達成される「小さな幸せ」に照準をあわせているからだ。社会の健康状態みたいな大きな標的を、「ここだけの話」が撃ち抜く道理はないのだった。



こういう事例を、自分でも経験し、他人からも聴くに及び、「検証なき知識のアップデートは、害悪に近い」という立ち位置が、ぼくの中で明らかになっていく。

けど、ま、高タンパク質・メガビタ・スカベンジャーと聞いて信じてしまったぼくも、ただちに実行にはうつせなかったわけで、中途半端にアップデートした知識であっても、大ケガまでたどりつくことは少ないんだろう。

……だから、大ケガするまでは、気づかないんだろうなあ。

すっかりフリーズしてしまったパソコンを見てそんなことを考え、お手洗いに行って戻ってきたら、なぜかあれだけ進捗していなかったはずのWindows updateが全て終わっていた。

お前、ほんとうに、適切にアップデートされたんだろうな……?

2017年5月23日火曜日

病理の話(81)

統計というのはとても面倒で、しかも、「なんだ統計って、人間をものみたいに仕分けしやがって、もっとひとりひとりの顔を見て語れ!」とか怒られてしまうことすらあるので、おそらく大半の人にとって、なんだかあまり通り過ぎたくない、できれば関わらずにいたい、表札の下に猛犬注意と書かれた家の前の小路のようなものである。

……ブログの更新画面というのはいいなあ。

今のをWordで書いていたら、「助詞の連続」とか言って怒られてたろう。



統計というのは誰のためにやるものなのか?

えいやっと方針を決める医者のため。医者から聞いた方針を患者が納得するため。

一例を出そう。

胃に8ミリ大のポリープができた人。胃カメラでこれをプチッと採ってきた。てっきり「過形成性ポリープ」と呼ばれる命に関わらない病気かと思っていたら、「がん」だったという。

がん! びっくりするのである。

しかし、がんならみな命に関わるというわけではないんですよ、と言われる。

このがんは、胃粘膜の中に留まっていますから……。


「留まっているとは、なんですか?」



患者は尋ねる。医者は説明をする。

「がんというのは、しみこむ性質があります。しみこんで、転移をする。全身に広がってしまうと、一部分を採ってもすぐ再発をしてしまうので、手術ではなく抗がん剤などを使って、全身一気に治療をしてしまわないといけなくなります」

患者はおびえる。しかし、話には続きがある。

「でもこのがんは、粘膜内に留まっていますからね。まず、転移の心配はないわけです」

……まず、というところが気にかかる。

「正確には、粘膜内にとどまっているがんであっても、1%未満の確率で、リンパ節に転移します」

でた、確率。

「でも、1%未満ですから、このまま、様子をみましょう」

患者は釈然としないのだ。

1%未満であっても、確率が「ゼロではない」。

だったら、100人とか1000人が同じ病気であれば、その中のだれかは「がんが転移する」ということではないか。

いろいろ調べてみると、「リンパ節転移の確率があるならば、手術で胃を採ることも必要だ」と書いてある。

あわてて主治医に尋ねてみた。

「1%未満とおっしゃいましたけど、転移の確率がわずかでもあるならば、念のために胃をとってしまったほうが、安全なのではないですか?」

主治医は答える。

「でもねえ……胃をとる手術って、すごく安全ですけど、手術関連の合併症が出る確率だって、ゼロではないんですよ」

ああ……また、ゼロではない、だ。

「ごくわずかな確率でリンパ節転移をしているかもしれない症例で、ごくわずかではあるけれど死んでしまうかもしれない手術をする。これは、メリットとデメリットをてんびんにかけるような話ですから。あなたがぼくの家族なら、手術はおすすめしませんね。手術というのは、0.0何%程度とはいえ、副作用がある手技です。そういうのは、転移の確率が5%とか10%とか有り得る人にこそやるべきだ。転移する確率があなたよりはるかに高いときに考えるのがスジです」


確率、確率、確率……。

確率はいいよ。「わたし」はどうなんだ。「わたしの場合」はどうなるんだ……。






こういう感想が出ること自体、無理はない。

世の中には「絶対当たる予測」というものは存在しない。すべては確率によって定義される。あるのは結果だけ、いつも結果を完全に予測し得ることはない。

有名なフレーズがひとつある。

「世界に、絶対、と言い切れることがひとつだけある。それは、

  『世の中に絶対というのは絶対無い』

 ということだ。」

なんて。

でもそこでぶちあたるのは「確率」である。

確率はグラデーションだ。シロかクロかではない。グレーな部分を考えるためのものだ。

天気予報に、明日は絶対晴れると言って欲しい。

降水確率0%だ、と言っていた。やったあ!

でも明日になってみたら、雨が降った。なんだよ、天気予報はずれたじゃん!

……これは、天気予報の「当たる確率」が100%じゃないから、起こったことである。

予報するのが天気でなくてもいっしょだ。100%当たる予報というのはない。



「がんです」と病理診断を書くとき、「ぼくのこの診断がはずれる確率はどれだけあるだろう」と考える。その確率に応じて、書き方を変える。

「ほぼ間違いなくがんですが、臨床画像が非典型的な場合には一度ご連絡ください」

「がんの可能性が高いですが、臨床的にがんではない可能性があるならば再検討が必要です」

「がんか、良性腫瘍か、五分五分です。再度検査をして、もう一度病理診断をさせてください」



ぼくらが「絶対だ」と言えることが一つだけある。それは、「わからないことをこねくり回しても、わかるようにはならない」ということ。

わからないならば、そのわからない理由をきちんと述べる。

どうしたらわかるようになるのかを、臨床医に投げ返す。そして、投げ返した球と同じスピードで、あるいは投げ返した球を追い越すくらいのスピードで、臨床医に電話する。

「わかんないんですよ。だから、こうしましょう」

進言して、一緒に悩んで、先に進む。



その先にいる患者が今日も困っている。「確率って言われたって……」

たぶん、この病理レポートを見たら、患者は悩んで苦しむだろうなあ。

その想像、臨床医と同じくらい、病理医だって、持っていてしかるべきなのである。

2017年5月22日月曜日

さあて先週のサザエさんは

モンゴルに行く前に、モンゴルから帰ってきた翌日のブログを書いている。もともと1週間分の記事ストックをしているので平常運転である。

「何を見て何を感じて帰ってきているのか、この頃のぼくは」と書いておけば、自分なりの感慨にひたることができるだろうな。



それはそれとして自分の記憶の使えなさには辟易する。かつて、美しい風景だとか、おいしい食事だとか、いろいろ見てきたこともあったはずなのに、歴代のすばらしい記憶とやらを思い出そうとしても、脳内の風景にいまいちピントが合わない。

あそこに行ったときのあの風景はどうだったろうかと写真を引っ張りだそうにも、スマホの遙か昔のバックアップデータを探り当てるのがまず一苦労だ。みつけた風景写真には、人が写っていないせいか、どうも感情移入できない。自分が映り込んでいない風景写真というのは、時間をおいて見てみると、単に構図がちょっとへたくそな素人の写真でしかなく、そこにあったはずの色素、臭い、音といったメタデータがすべて消えてしまっている。

まいったな。

自撮りしとけばよかったのか。



自撮りした写真というのは多くないが、学会などでえらい先生方と一緒に撮っていただいた写真というのがあるはずだ、と思って、学会写真フォルダを開いてみた。

えらい先生方の名前をもはや覚えていない。ぼくはいつも似たスーツ、似たネクタイでそこに写っている。似たポーズでこっちを見て、似た笑顔である。

まいったな。

自撮りであってもだめか。




香川のうどんを食いまくって楽しかった日の記憶、思い出すのは「あれから何度も、香川のうどんはおいしいよと人に言って回ったなあ」という記憶ばかりだ。後日談で当日の思い出が塗り替えられてしまっている。




エントロピー(乱雑さ、片付かなさ)の局所的減少こそが生命の本質であるはずなのに。

ぼくの記憶はふつうに時間通りのエントロピー上昇を来してしまっているのだった。




先日、実家にて昔の写真をみた。ぼくによく似た父親と、ぼく、そして弟が写った写真を見つけた。この写真の記憶自体がない。はじめて見る写真のようだ。

そこに写った小学生時代のぼくは、父親と同じポーズで、両方のポケットに手を入れて、こちらを見て笑っていた。

今とは少し違う笑顔をしていた。

おそらくは、写真を撮った母親を見て、笑顔になったのだろうと、わかる写真だった。




ぼくは今、写真に写り込んでも写り込まなくても、笑顔を向ける相手が自分なのだな、だから毎回、似たような顔しかできないで、特別な記憶として残すこともできないでいる。

さてモンゴルではどのような笑顔を撮ったのか、明後日のぼくは。

それを見返して、何か違うものを見ることができたのか、来週のぼくは。

2017年5月19日金曜日

病理の話(80)

ぼくら、「お気軽にご連絡ください」という立場である。レポートによく書く。わかんないことがあったらどんどん連絡してね!

……でも、臨床の医療者は、決して気軽には病理に連絡できないようだ。

というか、ぼくらは互いに、「科をまたいだ連絡」に対して、とても抵抗がある。

自分と違うタイムスケジュールで働いている専門家の時間を、電話やメールで削ってしまうことに対して、かなり躊躇してしまう。相手がどれだけいいよいいよと言ってくれても、である。

だって仲良くなればなるほど、相手の忙しさ、大変さが見えてくるし、余計な仕事増やしたくない(たとえそれが患者さんのためだったとしても、本来相手の仕事ではないものを相談するというのは、こと同僚にとっては「余計」なのではないか、と、邪推してしまうのが人の常である)。

「気軽に連絡をとりあえる」という関係は、なかなか達成できない。



臨床科同士の横の連携が密になっていると、診断の精度は上がるだろうなという予感がある。しかし、その予感と同じくらい、「ま、結局最終的に診断を下すのは自分だから……」と、連携をめんどくさがる感覚も、ある。

とりあえずガイドラインに表記されている事項を遵守していれば、細かいクリニカル・クエスチョン(臨床現場で医療者がもつ細かい疑問)をすべて解決しなくても、医療は回っていくし……。



あるいは、病理の勉強をしている臨床医などは、自分でもある程度「病理学的な事項」について判断ができるようになっているので、かえって「まあこの細かい疑問は病理医に聞くまでもないか」と自己解決してしまって、病理との連携をめったに取らなくなる……なんてケースもある。



とかく医療者は、とくに医師は、「自分ですべて解決できる」ということに、武勇伝的な何かを感じがちだ。

一方では、「お互い忙しいんだから、細かい疑問くらいなら自分で解決できるようにならんとな」という心遣いから出た行動であったりする。責める筋合いのものでもない。

けどぼくは、医療者のそういう「まあ相手も忙しいだろうし、聞きに行くまでもないか」は、さまざまな機会逸失につながる、「悪行」であると考えている。

善意から出た行動であっても、悪い何かをひっぱってくる可能性があるのなら、それは悪習としてきちんと是正していった方がいいと考えている。



細かいクリニカル・クエスチョンを、病理をはじめとする他科と連携せずに解決すると、いつしか病理医は「臨床で細かい検討が行われていること」に気づかなくなる。

医療は日進月歩なのに、いつまでも過去に必要とされたデータだけを出し続けるマシーンとなって、いつのまにか臨床の中で取り残されてしまう。

「こんな細かいことを病理にたずねるの、悪いかなあ」ではない。

「こういう細かいことがあると、病理をライブ・アップデートしてやろう」くらいの気持ちでいていただかないと、ぼくらはついていけなくなるのだ。

逆に、ぼくらが臨床に新たな気づきを与える情報を、別ルート(たとえば病理学会など)から持っているかもしれない。臨床のアップデートを病理から発信する機会は結構多いのだ。



お互いのために、連携は絶対必要なのである。



さて、お互いに連携を取る方がよいと言いながら、心理的障壁によって電話するのを躊躇する臨床の医療者たちを、どのようにアクティベートしていくか。

正解はないのだが、ぼく自身は、いくつか「こうしたらよいのではないか」という武器を実装している。



まず、病院の集まりに参加する。それは会議でもカンファレンスでもキャンサーボードでも飲み会でもなんでもいい。顔を見てもらう。血の通った人間がおたくの病理を担当しているんですよと、ちゃんと周知する。

次に、病理レポートを書いているときに、ちょっとでも何か臨床情報にひっかかることがあったら、ばんばん電話する。相手の時間を奪うことになる。迷惑かもしれない。だから、外来の担当時間などを逐一チェックし、各科の処置(手術など)のスケジュールをチェックして、「少なくとも今は大丈夫だろう」という時間に電話をかける。

病理レポートにも血の繋がった文章を書く。データベースを作りたいであろう臨床医が邪魔にならない程度に、「付記」欄を設けるようにして、その付記に「疑問なら答えるから連絡してこい」という雰囲気をばりばりにおわせる。

問い合わせがあったら秒で答える。とにかく自分の仕事を後回しにしてでも(どうせフレックスだ)、臨床からかかってきた電話にはその場で全て対応する。

プレゼン作成の依頼があったらなるべく詳細に解説を作る。パワーポイントのコメント欄に、時間がなくても読める、しかし必要条件をちょっとだけ越えるくらいの細かい説明を添えておく。




コミュニケーション重視の病理を心がける。それが、「次善の策」であろうと考えている。




……次善の策、と書いた。これらはすべて姑息的手段である。

本当は、いちばんいいのは、「あいつに聞けばものすごくいろいろ解決する」という実績をきちんと積み上げることである。

知人に、普段むだぐちをほとんど叩かない、病理検査室の奥に籠もって丹念な仕事を紡ぐ、ほとんど影のような存在の、それでいて病院内外から圧倒的な信頼感を得ている、しょっちゅう問い合わせの電話がかかってくるタイプの病理医がいる。

誰が呼んだか、彼のあだ名は「ジーニアス」。撮る写真が美しい。なんでも知っている。参考文献がスッと出てくる。

ああいう病理医を知ってしまうと、コミュニケーションのためにFacebookにいいねを付けまくるぼくなんぞ、合戦前にさんざんしゃべってフラグを立てたあげくに関羽に一合で斬られる魏のモブ武将みたいなもんだよなあと、自戒してしまうのだ。

2017年5月18日木曜日

モンゴルさん

この原稿は、ぼくがモンゴルにいる間にアップされる予定です。ツイッターで告知できないかもしれません。わざわざ読みに来てくださった方、いつもありがとうございます。




今回のぼくのモンゴル出張、目的は、ANBIG workshop ( http://www.anbig.org/ ) に出席することである。

Asian Novel Bio-Imaging and Intervention group, 略してANBIG。Iが2回あるけど、1回しか読んでいない。こういう、無茶な略称を付けた研究会には、たいてい「その略称でなければいけなかった理由」がある。

きっと、Asian NBI groupと読んでもらうためだろうなあ。

「NBI」とは、オリンパスという企業が作った胃カメラ・大腸カメラの技術の名前(narrow band imaging)に等しい。つまりはCMをかねているのだろう。

オリンパスだけではなく、複数の企業が協賛して、このぜいたくな研究会を支えている。





ANBIG workshopの正体は、エキスパート内視鏡医(胃カメラや大腸カメラの達人たち)が、アジア各国で技術を伝えて回る会だ。

過去にベトナム、香港、ミャンマー、インド、タイ、オーストラリア、台湾、中国、シンガポール、サウジアラビア、韓国、スリランカ、マレーシア、インドネシアで複数回開催されている。うーん、すごい数。

これだけの国で、しかもそれぞれ複数回開催されているとなると、さぞかし歴史ある研究会なのだろう、と思ってさかのぼってみて、驚いた。

中国で開催された第1回は2013年12月のこと。たかだか3年半しか経っていないのに、これだけの国に行ったというのだろうか?

過去の記録をふりかえってみた( http://www.anbig.org/activities/ )。なんと、「毎月」開催しているのである。

毎月、国際研究会を、各国で開催するだけのお金……?

いくら多数の企業が協賛していると言っても、なかなか運営できる回数ではない。




ANBIGでは、毎回、「先生役」にあたる医師が、2名ほど現地に乗り込んで、内視鏡を用いた最新の技術を、その国のエース達に「伝授」する。

呼ばれる「先生役」の多くは日本の内視鏡医だ。病理医のぼくですら聞いたことのあるような有名な名前が、ずらりと並ぶ。




これだけの国に、これだけの頻度で、毎回日本から、国際線に乗っけて偉い人を運ぶだけの「ニーズ」と「商売のタネ」が、この世界に存在する、ということ。

ちょっと、気が遠くなる。




胃カメラ、大腸カメラがターゲットとするのは、食道がん、胃がん、大腸がん。内視鏡医たちは、これらのがんをカメラで見て「診断」し、さらに、その場でカメラから特殊な電気メスのようなデバイスを出して「治療」をする。

胃カメラや大腸カメラですべてのがんを治療できるわけではない。進行したがんは、カメラの先から出る小さなデバイスだけでは治療がしきれないので、外科手術を行ったり、放射線治療や抗がん剤を使うなどして治療を行う。

ただ、「ある程度小さいがんであれば」、手術をしなくても、放射線や抗がん剤を使わなくても、カメラだけで治療できてしまうことがある。

これは本当にすごいことだ。

お腹を切り開かなくても、抗がん剤の副作用に耐えなくても、がんを根治させることができる、そんな素晴らしいことはない。限られたケースでしか適用できないにしても、だ。

だから、世界各地の「胃腸のお医者さん」は、最新の内視鏡治療がやりたくてしょうがない。




すごいお金が動いて、アジアのあちこちで研究会が開催されるのも、納得なのである。




そんなところになぜぼくが呼ばれていくのか……。

実はまだ、このブログを書いている時点では、モンゴルにたどりついてもいないし、講演も終わっていないので、ぼく自身、答えを持っていないのだが、ある理由を推測している。



理由。

胃カメラや大腸カメラを「極めよう」と思ったら、病理の知識について勉強したくなるのは当たり前と言える。

研究会が成熟し、モンゴルでも通算3回目の開催となったANBIG。「そろそろ病理医を呼びたいな」となったこと自体は、まったく不思議ではない。

内視鏡の進歩はすさまじく、それこそ前述のNBI(オリンパス)やFICE(富士フィルム)などの光学強調技術、さらには超拡大内視鏡(エンドサイトスコピー)と呼ばれる技術によって、消化器診療は今や、

「カメラを見るだけで、病気を形作る細胞の姿まである程度わかってしまう」

時代に突入した。

病気を切り出してきて、顕微鏡で覗かなくても、胃カメラや大腸カメラの画像を細かく解析すれば、病理診断に匹敵する確定診断ができるかもしれない。

「病理診断に匹敵する」ために必要なのは、「病理診断に精通する」ことだ。

実際、日本では、多くの内視鏡系の学会・研究会があるが、その多くで病理医が参画している。

だから、ANBIGでも、このたびはじめて、病理医を呼ぶことになったのであろう。



……なぜぼくなのだ?

それは、ぼくが、「ほどよいザコ」だからではないか。



海外の研究会に、病理で有名な教授なんて読んで講演を頼んだら、交通費・宿泊費に加えてさらに、「講演料」を払わなければいけない。

その点ぼくなら、偉くないから、交通・宿泊以外のお金を払わなくていい(実際、講演料は出ません)。

多少強行日程であっても、体調を崩しても、日本の病理学が揺らぐわけでもないし。

なにより、「病理の会」じゃなくて、「内視鏡医の会」なんだから、多少経験が少ない病理医でも、なんとかなるんじゃねぇの?




……みたいな理由を考えないと、なぜぼくが呼ばれたのか、どうもよくわからんのである。謙遜とかではない、ふつうにびびって、モンゴルでスマホやPCを充電するための変換プラグを用意したり、モンゴル語の勉強をして現地の人に嫌われないようにしたり、予防接種の準備をしたり、パスポートの写真がしょぼかったことを根に持ったり、仁川国際空港での乗り継ぎの仕方をブログで勉強したりしているのだが、そのあいまにぶつぶつと、不安だ、なんでぼくなんだ、ちゃんとやれるんだろうか、MIATモンゴル航空のeチケットにリザーブナンバーが書いてないのはなぜなんだ、とつぶやき続けているのである。

そんなぼくは、飛行機の乗り継ぎに成功している場合は、いま、ウランバートルのホテルでそろそろ目が覚めるはずなのです。Wi-Fiはほんとうにつながっているのだろうか。