2018年4月27日金曜日

病理の話(195) 富嶽三十六景を病理診断する

顕微鏡をみたときに、みたものをどういう言葉で表現するか。それを読んだ人が、何を思い浮かべるのか。

これを、ひとつの絵を例に挙げて説明しようと思う。お題は「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」である。誰もが知っているあの有名な絵だ。


(画像はWikipediaからの引用)(おこられたら消しますごめんね)


1.ある人の説明

 ・神奈川の沖から富士山をみた絵です。富士山をモチーフとした一連の浮世絵の一枚で、とても有名です。

2.ある人の説明

 ・葛飾北斎「富嶽三十六景」の一枚です。波にゆられる舟、遠くに見える富士山が印象的です。

3.ある人の説明

 ・波の上に舟が3艘あって、そこにへばりついている人の表情がとても気になります。富士山は小さいです。

4.ある人の説明

 ・波しぶきがまるでシャッタースピードをすごく短時間にした現代のカメラで撮ったようで、葛飾北斎の目ってのはいったいどうなってんだと驚きます。



たとえばあなたなら、もっとうまく言い表せるかもしれない。あるいはあなたが絵の専門家なら、ぼくの知らない専門用語も用いて、もっと高度な解説ができるかもしれない。

ただ、1枚の絵を言い表すにはさまざまなやり方があって、どれが正解とよべるものではないというのは、わかっていただけるのではないか、と思う。


その上で。



顕微鏡で画像を眺めたときに、病理医がレポートに書くべきポイントは、(ぼくの個人的な意見ではあるが)以下の2つに集約されると思っている。

 1)この絵は結局どういうタイトルなのか。どういう絵に分類されるのか。

 2)まだこの絵をみていない人に、文章だけで、絵のだいたいの雰囲気が伝えられるだろうか。

1が、主診断文。
2が、所見文と呼ばれるものだ。

忙しくて要点だけを掴みたい臨床医(?)には、「主診断文」をとにかく読んでもらう。
そして、自分の患者に対する情報をとにかく事細かに知りたい、病理まで踏み込んでじっくり考えたい人むけに、「所見文」をしっかり書いておく。

両方用意してあるレポートが、よい病理診断報告書だと、ぼくは思っている。ただ、これは読み手のニーズに応じて調整すべきものでもある。

その上で。臨床医のニーズが「とことん所見を書いてくれ!」だったときに、ぼくが普段書く病理診断がどんな感じなのかを、富嶽三十六景の描写になぞらえて、以下、やってみる。先に言っとくけど長いよ。




診断:  葛飾北斎, 富嶽三十六景, 神奈川沖浪裏。

所見:
 多色刷りの木版画が提出されています。
 葛飾北斎の連作浮世絵、富嶽三十六景の一枚、神奈川沖浪裏と診断いたします。規約事項は以下の通りです。
  ・感動度:高度
  ・知名度:85%
  ・思わず語彙が:減る

 以下に詳細な観察所見を記載します。

 全体像: 「海上から、富士山の方向を見た風景」を想定して描かれた絵です。やや黄ばんだ紙に、海の波と、波にもまれる舟、そして波の向こうに遠く小さく富士山が刷られています。左上にタイトルが記載されており、神奈川沖浪裏、とあります。
 構図: 富士山をモチーフとした連作ながら、版画内に描かれている総量としては富士山よりも波の方がはるかに多く観察されます。画面の下3分の1は海で、その波は激しく猛って海面がへこんだり盛り上がったりしています。盛り上がりのうち最も激しいものは画面の左上に鎌首をもたげるかのような大波として描かれ、この波が画面中央から右側に向けて白くはじけて波しぶきとなっています。波しぶきは一つ一つが独立した中小の点(あるいは小楕円)として描かれており、あたかも実際の波を高速度写真で撮影したかのようで、「一瞬を切り取った絵」であることをはっきり意識させられます。鎌首をもたげる大波を含めたすべての海面は、画面の下1/3から左側にむけて複数の円弧を形成し、円弧の中心の部に遠方に望む富士山が小さく描かれています。
 拡大所見: 波間には舟が3艘描かれています。これらは当時活魚輸送などに使われた押送船であり、3艘の船の上には合計30人程度の男性が小さく描かれています。彼らは一様に、身を小さくして船のへりにへばりついており、船が波に大きくもまれて振り落とされるのをおそれしがみついているのだろうと推察できます。富士山は山頂に多くの雪をたたえ、全体が明るく影のない状態として描かれています。葛飾北斎の他の作では、時刻や太陽の角度に応じて富士山に細かく陰影を付ける技法が用いられていることから、おそらく観察者の背側から光が当たっている早朝もしくは夕暮れの時刻を描いていると推察でき、神奈川沖から富士山を眺めているとするならば本例は早朝の風景であると考えられます。富士山の裾野付近は波と同系列の深い青で塗られており、富士山がはるか遠方にあることを示唆します。なお、前述した波しぶきは遠方の富士山に「降りかかるように」描かれており、あたかも富士に降りそそぐ雪のような印象を絵に与えています。画面全体から寒々とした冬の海の印象を受ける一因であるとも考えられます。

添付画像1:ルーペ像。
添付画像2:署名部、拡大像。
参考:「逆巻く波の向こうに一瞬富士山が見えた瞬間」を描いた構図のダイナミックさ、遠近法、時間の描写などいずれも秀逸で、日本を代表する絵画として海外でも高く評価されています(参考文献:The British Museum Collection Online)。

(2018/04/19 病理診断医 市原 真)



あ、浮世絵の解説はもちろんですがWikipediaに教えてもらっただけです。ぼくそんなに浮世絵にくわしくないからね。

2018年4月26日木曜日

本は無慈悲な旅を所望

ハインラインの長編SFを買ってから数ヶ月経つ。まだ読んでいない。

定期購読の雑誌(「胃と腸」とか「本の雑誌」)、マンガ、タイムラインでおすすめされた本などを順番に読んでいると、あっという間に1か月くらい過ぎていく。



この数か月間、実は長期の出張がほとんどなかった。

釧路出張は、飛行機のフライト時間が40分ちょっとしかないからまとまった本を読む気がしない。

一度だけ岡山出張があったのだが、このときは行きの飛行機の中でもずっと講演のプレゼンを直していたので本を読めなかった。

ちょっとだけ空いた時間もあったのだが、スマホのKindleで「ぱらのま」とか「ゆるキャン△」を読んでいたら過ぎ去ってしまった。



できれば東京より西の地域に月3回くらい出張したい。そしたら、フライト時間がいっぱいあるから、もっと長編の本が読めるだろうなあ。



自分でこういうことを考えていて、いや、ま、別に、家で寝る前とかに読めばいいのでは? と自らつっこみ、ここのところ少し試してみた。寝る前の読書。

だめだった。寝る前に読書をするとそのまま寝てしまう。

この時間に読書をするのはやめろ、そのまま睡眠にあてなさい、と肉体が判断している。

これに対し、飛行機の移動時間は、「読書にあてたらいい。それはよい。」と、肉体がお許しくださっているのだろう。

肉体さまが他におゆるしくださるような、本を読んでよいタイミングというのは、いつだ。




以前に野田知佑氏の話を書いたかもしれない。彼はエッセイ「ユーコン川を筏で下る」の中で、ユーコンのほとりでジャック・ロンドンの伝記「馬に乗った水夫」を読んでいた。ぼくはそのシーンがとてもかっこいいなあと思い、自分でも「馬に乗った水夫」を購入して読んでみた。しかし、翻訳はそこまで硬くないのだけれどもあれはおそらく原文が硬いのだろうな、移動時間が極めて短い「仕事旅」の最中にはなかなか読み進めなかった。読み終わるのに1か月以上かけてしまった。

そのとき思った。そうだ、ぼくもゆっくり川下りをすれば本が読めるかもしれないと。読みたい本を読むために、出張のときに毎回川下りをするというのはどうだろうか?

どうだろうか? じゃない。そんな出張はありえない。しかし、川下りとまではいわないが、出張の際に似たような「スロー旅」をやっているドクターにはしばしば出会う。

たとえば新潟にいる拡大内視鏡の権威は、講演でどこかに呼ばれるたびに、旅程の一部(特に帰路)を鈍行で組み、3時間とか6時間という移動時間をわざわざ用意して、渓谷とか海沿いなどをゴトゴト走る列車でゆっくりとした時間を過ごして癒やされるのだという。釧路で講演があったら、翌日は釧路からすぐ帰らずに、釧網線というローカル鈍行にのって網走まで移動し、女満別空港から帰る、といった塩梅だ。すばらしい。ぼくもそういう立場になりたい。出張のたびにゆっくりと鈍行列車に乗りながら本を読むなんて最高だ。

最高だ、が、それをやるには結局、偉くならないといけない。ぼくは本を読むために偉くなろうと思う。

2018年4月25日水曜日

病理の話(194) 患者の幸福とは何だ

医療の目的はなにか。

「患者の幸福」というのがまあ一番なんじゃないかな。

これに反論する人もいるかもしれないけれどいったんおいとく。

で、「患者の幸福」の定義は、それほど簡単ではない。



たとえば、糖尿病という病気は、

 ・食後などにおいて血糖値が高め

 ・だけど特に症状とかはない

という時期が、比較的長く続く。

この時点で、血液検査などによって”ひっかかる”ことが多い。

ひっかかるというのもまた一筋縄ではいかない言葉だ。なんとなく投げやりなニュアンスを含む。

ひっかかった人はどう思うかというと……。

「えっ、俺、病気なの?」

「なんともないのに?」



そこに医者からコメントが入る。

「このままの状態を続けると、いずれやばいですから。食生活を見直しましょうね。運動をしましょうね。」




この一連の流れは、患者にとって「幸福」だろうか?

とつぜん病気だといわれて生活を制限されるのだから、ま、ちっとも幸福ではないように思える。



医療を巡る諸問題のキモはここにあると思う。

患者は「今幸福なんだから、ほっといてくれ」と思う生き物だ。

けれども、医療者は、

「将来その幸福がごっそり減ることが ”予想される” から、今から対策をして、将来できるだけ不幸にならないようにしようぜ」

と提案したい生き物である。




冒頭、ぼくはこのように書いた。

 医療の目的はなにか。

 「患者の幸福」というのがまあ一番なんじゃないかな。



でも医療者からすると、こう書きたくなるのだ。

 医療の目的はなにか。

 「患者の現在および将来における幸福」。ただし幸福は相対的である。




医療者というのは多くの患者と触れるうちに、

「この患者にこれをしないとあとでつらくなる」

「この患者にあれをやめさせないとあとがきついぞ」

「その患者にこう介入しなければ将来不幸になる」

「この患者はどのみち不幸になっていくのだが、それでもこれをすることで、いちばん軽い不幸でおさまる」

というように、「将来の予測」を自然と用いるようになる。

ところが患者にはこの「予測」がわからない。将来を実感できない。

「タバコやめないと苦しんで死にますよ、だって? ハッ、人間だれだって死ぬときは苦しまァ!」

と豪語した元気な中年男性が、のちに重度の肺気腫で「おぼれながら毎日を過ごす」ようになる、ということを、医療者はなんとなく予測して、ぼそりとつぶやく、「だから言ったのに」。

一方、まだ肺気腫がそれほどひどくなっていないころ、タバコを吸い続けながら「医者のいうことなんざ笑い飛ばしてやったよ!」と笑い飛ばしていた人は、その瞬間、あるいは幸せだったかもしれない。

「そんな幸せはにせものだ」と、あなたは言えるだろうか?

患者の幸福とはなんだ?





将来のことは誰にもわからない。医者だってわかっているのは確率だけだ。

まだサイコロをふってもいない状態から負けると決めつけて、負けに備えて準備をしなさい、そのために今の幸せを少し削りなさいとはどういうことだ、といいたくなる患者の気持ちもわかる。





ぼくは、医療の目的を真に達成するためには、患者の現在と将来を、患者と医療者が「二人三脚で予測」して、どの段階での幸せを優先するかしっかり話し合うことが必要だと思う。

 ・現在だけではだめだ。医療者は将来がみえる。現在ばかり気にしている患者をみると、「将来をみろよ」といいたくなる。

 ・将来だけではだめだ。患者は今に生きている。将来ばかり気にしている医療者をみると、「今の俺をみてくれよ」といいたくなる。






問おう。

安楽死ということばは、「死という将来、あるいは死後という将来」のために行うことか?

それとも、「現在の生」のために行うことか?

なぜ医療者の多くは安楽死に反対するのか?

なぜ患者の多くは安楽死を導入したほうがいいと思っているのか?

2018年4月24日火曜日

覇王丸「アッタマにきたぜぇ」

腹筋が弱ってきたので、油断をすると、腹がぽこんと出る。

頚椎症なので、油断をすると、手がしびれる。

だからいつも油断をしないようにふるまっている。

あたかも隙がないようにふるまっている。

背筋をのばして、武術の達人のような姿勢でPCに向かう。

仕事をする。諸事、侍の気分だ。

律すればうまくいく。

律しよう。

なんだかそうやってがちがちにしていないと、腹は出てくるし、手はしびれてくるしで、仕事中に気が散ってしょうがない。




休みにソファでのんびりうつぶせに寝転んで本を読んでいたのだが、だんだん首がきつくなってきたとき、「あっ」と思った。

昔は長時間寝転んで本を読むことになんの不自由もなかったけれど、今のぼくは、「長時間ゆっくりすること」が体力的に厳しくなっている。

姿勢をかえた。あおむけになる。本を持ち上げる。

どうにも腰や首が落ち着かないが、これでしばらくがまんをする。

うーん、のんびりするのって体力がいるんだな。

根負けする。ソファにきちんと座り直す。足も組まずにまっすぐ背中を伸ばす。

本を前にかかげて読み続けた。まるで儒学の徒のような気分だ。




祖父が好きだった時代劇を、祖父が亡くなったあと、ぼうっと見ていた。昔は今と違って夕方などにときどき時代劇というドラマをやっていたのだ。

時代劇に描かれる武士や僧侶などは、夜、うすぐらい灯りのもとで、きれいに正座して本を読んでいた。ぼくはそれを寝転びながら見て、

「昔の人って本読むときにあんなに真剣にならなきゃいけなかったんだな、たいへんだな、今みたいに寝転んでマンガ読めるのは幸せだな」

などと思っていた。

けれども、今になって思う。




中年は寝転んでマンガを読むのがつらい。

一事が万事、「サムライ化」しないと、いろいろと不具合が出る。

ぼくはあの時代劇はきちんと中年を描いていたのではないか、などと今になって思うのだ。

2018年4月23日月曜日

病理の話(193) 細胞を書くにはことばが肝心

「異型腫瘍細胞が異型腺腔構造を形成して増殖する腺癌です。」

病理報告書に、たとえばこういう説明文が書いてあるとする。

あなたが非医療者であれば、なんのこっちゃ? であろう。専門用語だからね。

でも、実は、あなたが担当医であっても、なんのこっちゃ? となる。

この文章、医者じゃないからわからないのではない。医者であってもわからない。病理というのはそういう世界だ。

さらにいうと、仮にあなたが病理医であっても、この診断文を読むと「なんのこっちゃ?」となるかもしれない。




いきなりいじわるをしてしまった。

今の文章は、厳密にいえば、不適切な診断文なのである。

実際に診断の現場でいろんなレポートを読むと、こういう文章に出会うことはままある。

あるが、十分に経験を積んだ病理医がこういう文章を書くことはまずない。




この文章の何がおかしいのかをちょっと考えてみよう。

「異型腫瘍細胞が異型腺腔構造を形成して増殖する腺癌です。」




2回用いられている「異型」がまず気になる。

異型とはなんだ。

異なる型、と書くから、何かのかたちが違うんだろう、くらいの想像はつくことだろう。



Q1.かたちが違うというのは、何と比べて?

  A1.正常の、そこにあってよい細胞と比べて。

Q2.かたちが違うというのは、どのように?

  A2.正常の臓器にあってよいかたち、あってよくないかたちというのがある。

Q3.かたちが違うということは、何を意味する?

  A3.それが、がんかもしれないということ。ただ、がんでなくても、異型が出ることはある。


「異型」という短いことばにはこれくらいの「含み」がある。

そもそもは、「がんの可能性があるとき」にまず用いることばである。

ただ、異型があるというだけでがんだと言い切ることはできない。


ということは、だ……。

冒頭の、

「異型腫瘍細胞が異型腺腔構造を形成して増殖する腺癌です。」

を、詳しく説明すると、このようになる。

「がんかもしれないけれどがんではないかもしれない、かたちの違いを有する腫瘍細胞が、がんかもしれないけれどがんではないかもしれない腺腔構造を形成して増殖する、(腺癌という)がんです。」




なんじゃこりゃ。

長ったらしく説明したのはいいけれど、結局、「がん or not? がん or not?」と迷わせておいて、最後に突然ドーンと「がんです」と書いてあるだけの文章ではないか。

例えてみればこういう文章なのだ。

「悪人面をした人が悪人っぽい服を着ています。ヤクザです。」

お、おう、ってなもんだ。根拠はどこに書いてあるのだ。偏見と主観のかたまりではないか。

こんなものを診断とは呼ばないのである。




異型ということばは、それ単独では、むしろ迷いしか生まない種類の言葉だ。

「どのような」異型なのか、それが「どれくらい」がんっぽいのかを説明しないまま、手を抜いて「異型がある」とだけ書いても、読んでいるほうからすると、情報が増えない。

”読んでいるほうからすると、情報が増えない” というのは、「いやな病理診断」を考えるときのひとつのキーワードである。

病理診断なんて、自分がわかってりゃいいじゃねぇかよ、は、完全にダメとはいわないが、ぼくはおすすめしない。




ここまでの文章を読んで、一部の、病理を研修している初学者などは、ぎょっとするかもしれない。

「えっ、異型ってことばを使っちゃいけないの?」



使い方が肝心なのだ。

異型ということばを使うならば、自分の立ち位置を明確にせよ。

「がんか、がんじゃないか、わからない」と本気で思ったならそう書けばよい。

しかし、最後に「がんだと思う」と書くつもりならば、読んだ人が「なるほど、がんだな」と納得できるだけの説明を、きちんと書かなければいけない。

異型という、一見べんりで、かつ何もいっていない言葉を用いるにはコツがいる。

たとえば、こうだ。



「核の大小不同や核小体の明瞭化、核膜の不整、核の輪郭の不規則さが明らかな異型核と、偏在した微細顆粒状の細胞質を有する上皮細胞が、gland-in-glandやback-to-backなどの構造異型を有する腺管構造を構成して浸潤性増殖する像がみられます。腺癌です。」




あなたが非医療者であれば、なんのこっちゃ? であろう。専門用語だからね。

でも、実は、あなたが担当医だと、「おっなるほど。ちゃんと見てくれてるんだな」くらいに変わる。

そしてこの文章、仮にあなたが病理医であれば、「うん、確かにがんだね。」と読める。




まずはここからだ。

ここから、順番に、「担当医がもっとよくわかる文章」を目指し、最終的には「非医療者にもわかるような文章を書くべきタイミング」というのをはかるようになっていく。

2018年4月20日金曜日

あたりまえだけど12月は寒い

北海道はいつ暖かくなるんですか、と問われたとき、答え方に少し苦労した。

「もうあったかいじゃないか。」

ぼくはそういいたかった。

4月の頭。いつもなら多少残っていてもおかしくない路肩の雪は、今年はすっかり解けてしまっていた。年によってはゴールデンウィーク直前まで根雪が残ってしまうこともあるのに。今年はあっさりだな、暖かいなあ、という感想しかなかった。

でも、まあ、確かに。

朝夕にはコートがかかせない。風は身を切る冷たさで。

これは一般的には、「まだあったかくない」という状態だろう。

「いつあたたかくなるのか」という質問に対し、残雪がないからもうあたたかい、では回答になっていない。

基準は、気温だ。

あたりまえだ。

あたりまえだけど。

ぼくの主観では、「残雪がなければそれはあたたかい」なのだった。

ぼくはなぜか不機嫌になっていた。




北海道はいつ暖かくなるのだろう、ということを、「他人の基準」で考える。

「ゴールデンウィークでも夜半に寒いなって思うことはあるんだよ。」

「ええー、さすが北海道ですねえ。」

うん、無事、会話はうまくいった。








「リキッド・レインボウがやってきて、俺たちみんなを助けてくれる。

リキッド・レインボウがやってきて、俺たちみんなを助けてくれる。」




ぼくはSuiseiNoboAzというバンドの「liquid rainbow」という曲は相当な名曲だと思う。

歌詞を引用するなと怒られたらごめんねってして記事ごと削除しよう。

このあたりは主観で決定されていく。

ていうかもう何年も12月なんじゃないか。

2018年4月19日木曜日

病理の話(192) 病理入門編

それぞれ学習の進度が異なる研修医のみなさんを眺めていると、病理診断というものが、当初医学生や研修医たちにどのように思われており、それがどうやってプロの仕事に近づいていくか、という過程を眺めているような気持ちになってなかなかおもしろいのである。


まず、病理にはじめてやってきて、学生実習以来はじめて顕微鏡をのぞく人は、顕微鏡のクオリティに驚く。

実習で使った顕微鏡とは見え方がまるで違うのだ。よく見える。はっきり見える。びしびしピントが合う。なんだかボタンがいっぱいついている。

横からぼくがやってきて、少し光量を落とすことを教える。解像度のよい顕微鏡は、あまり明るくしなくても細胞がきちんと見える。光量が強いとすぐ目が疲れてしまうから、疲れないように。

自分でハンドルを動かしてみて、あまり酔わないことに気づく。

なぜ酔わないのだろう。レンズがいいからだろうか。

実は、「光軸の設定」が完璧だと、酔わない。というか、実習で使っている安い顕微鏡は光軸がずれており、いわゆる「乱視」みたいな状態になっていることが多いので、しばらく見ていると酔ってしまうことが多いのだ。

あれを顕微鏡だと思わないでほしい。

病理の最初は、まず、「顕微鏡ってすげぇんだな」を知るところからはじまる。



そして、ひととおり顕微鏡で遊んだ後、ぼくのしゃべる内容にほとんど顕微鏡の話が出てこないことに気づく。これが第二段階だ。

病理診断は顕微鏡をみる前に9割終わっているのだ、ということを理解してもらう。

病理診断学は、顕微鏡診断学とイコールではない。

病理診断学の一部に顕微鏡診断学があるに過ぎない。

そのことに、きちんと「ショック」を受けてくれる研修医は伸びる。

「顕微鏡をみる前に、あるいはみている最中も、ほかにやることがいっぱいあるんですね。」

これをわかってくれると、病理部の存在が単なる「顕微鏡屋」には見えなくなってくる。



その上で、病理診断報告書の書き方を学ぶ。

「箇条書き」と揶揄されるレポートの中には、統計学の番人たる病理医の矜持が籠められていることを知る。

「病理医にしかわからない自己満足の長文解説」が、臨床医や患者と離れた場所で病理医が担保しなければいけない診断均てん化に果たす役割を学ぶ。

そして、「臨床が求める美しいレポート」のありようを探る。

読みやすく、かつ、文章を追うだけでまるで顕微鏡像が思い浮かぶような「名文」を考える。

名文の先にある「神報告書」だと、なんと文章を読むだけで臨床医がみていたCT, MRIなどの画像情報や、患者さんの顔色までが見えてくるのだ、ということを知って、笑う。



いいレポートを書きたい、と思ったら、顕微鏡の見方が洗練されてくる。

教科書に載っている典型像を、必死で顕微鏡で探すだけの、「絵合わせ診断」は卒業だ。

何がみえたらまずいのか。何を探してみつけに行くのか。そういったことを考えて顕微鏡をみるようになる。




「いいなあ病理医は、細胞だけみてりゃいいんだから」とイヤミをいってくる臨床医の気持ちを忘れないうちに。

臨床医がなぜ、病理医に対してそんな卑屈な感情を抱くに至ったのか、思いを巡らせ。

臨床医がいつか、「あの病理医に細胞をまかせておけば安心だ」という日がくるように。

どうしたらよいコミュニケーションがとれるかを夢想する。




臨床医と良好な関係を築けるような病理医を目指しているある日、病理学の教科書が気になる。

そこには、しばしば、臨床医の方を全く向かずに、顕微鏡だけで組み立てた「真実」が載っている。

そういうものが、むしろ、逆に、気になってしょうがなくなる。

医師免許をとりながら、あえて顕微鏡の世界だけに暮らした人々というのがいる。

臨床医とがっちり会話しながら、患者に思いを馳せる病理学はとても楽しい。そんなこと、昔の病理医だってわかっていたはずなのに。

なぜ昔の病理医は、「ただひたすらに顕微鏡をみること」を、そんなにおもしろいと思えたのか?

……逆に、気になってくる。

だから読む。しばし読む。じっくりと読む。

行間から、「どうだ、病理学だぞ」というプライドのようなものが立ち上がってくる。

その奥に、本当に繊細なプロの仕事がみえてくる。




このブログを毎日欠かさず読んでいる人というのは、全国に1000人くらいしかいらっしゃらない。たったの1000人だ。

その中に、病理の研修をしている研修医というのが何人含まれているだろうか。

もしかしたら1人もいないかもしれない。それでもいちおう、書いておく。




あなたは今日の記事の、どこに一番「共感」したくなったろうか。

必ずしも順番が一緒ではないかもしれない。

あるいはひとつも共感できなかったかもしれない。

でも、たいていの病理研修医たちは、これらをある程度順番通りに通過していく。

病理医の人生みたいなものが、おぼろげに見えてくる気がして、とてもおもしろいなあと思う。

2018年4月18日水曜日

ドングリ

やれやれ、と一息ついたところで技師さんがデスクに来た。

先日、岡山出張のときに検査室に買ってきたおみやげのきびだんごを持ってやってきた。

先生も食べませんか。

あらまありがとう。

自分で買ったおみやげを自分で食べる。ふかふかしておいしかった。



食べ物とか音楽というものが自分の神経を柔らかく、ゆるやかにしてくれるということを、なるべく忘れずにやっていきたい。

本当に厳しく忙しいときには、何かそういう、人間の五感ってのはいつでも多方面でゆるもうとしているんだぞ、という事実を忘れてしまう。

目の前が真っ暗になるというのはなかなかいい表現だなあといつも思うが、どちらかというと、疲れているとき、くさくさしているとき、どうにもつらいときには、脳の中が真っ暗になる感じがある。

元気なときにはあれだけ見えていた「五感の遊び相手」が、まったく見えなくなる。

そういうときに、自分がこうして書いたブログの文章などを思い出せるかどうかが、たぶん、なんとかやり過ごしていくためのカギなのだろうな。

ぼくはときおり、そうやって、自分の目の前(と脳の中)が真っ暗になったときに備えて、あちこちに文章を備蓄している。

シマリスみたいなものだ。心の冬に備えてあちこちにドングリを植えておく。




ドングリならぬきびだんごをもうひとつ食べながら、しばらくブログ編集画面を開いたまま椅子に沈み込んでいた。

まあ、このこと、書いておくかなあ、という気になった。自分のためなので特にオチはないのだが、ひとまずタイトルだけは決まったのでそこから適当に書いてみたら、こういうものになった。大事に雪の中に埋める、そんな気持ちでキーを叩く。

2018年4月17日火曜日

病理の話(191) あそびにんとドラクエ

病理医は、臓器を肉眼でみて、顕微鏡でプレパラートをみて、診断をする。

いわゆる、「病理診断」を生業としている。

ただ、これだけを振りかざして戦うのは、少々こころもとない。



「病理診断」自体は、他の武門の医者はなかなか修得できない。

基本的に、病理医だけが修得できる技術だ。

だから病理医である限り、一生、プレパラートをみるための知識や知恵、技術などを学び続ける。

確かに強力な武器ではある。

でも、ぼくは、これに加えて、「病理医以外の医者も獲得できる技術」をちょっと押さえておくことが役に立つだろうな、と思っている。血液データの読み方。CTやMRIの読み方。腫瘍学の基礎。そんなあれこれだ。




ドラクエに例えよう。

病理医を「せんし(戦士)」だとする。

プレパラート技術というのは、ドラクエでいうと「せんししか装備できない、専用装備」。たとえば「おおかなづち」とか「らいじんのけん」のようなものだ。

これに対して、他の医者も用いる技術は、「せんしも含めて多くの職業が使ったり装備できたりする、防具やアクセサリー」に相当する。「ひかりのドレス」とか、「ほしふるうでわ」とかね。




当院に後期研修医が来ているのだが、ぼくはこの「専用装備」と「汎用装備」を両方教えようとしている。

もちろん、研修期間にあれもこれもと詰め込むのはよくないのだが、これからレベルをあげていこうというときに、武器だけで世界にほっぽりだすのはちょっと危ないんじゃないかなと思う。

「はかいのつるぎ」だけ持たせて、体は「たびびとのふく」というのはいかにもアンバランスだろう。ほしふるうでわくらい装備させて、大学に返したい。




そんなことを考えながら、日々研修医と接しているうちに、自分の教えている内容が「専用装備」と「汎用装備」だけではないことに気づいた。

ああ、ぼくは、「せんし」の話ばかりしているわけではないようだな。

「パーティ」の話をしているなあ。

自分で自分の話し方に気づいて、ふーむと考えた。





病理検査室の病理医は「せんし」。

しかし、「せんし」ひとりで旅に出るのはドラクエでいうとライアンくらいのものだ。

彼だってホイミン抜きではあっさり死んでしまう。

この世界、ひとりで戦うのには向いていない。だから、病理医は、パーティを組む。



さて、最も頼りになる相方は誰か?

臨床医……を思い浮かべる人は多いと思う。

もちろん彼らはパーティの相棒だ。というか、「せんし」よりも多彩な攻撃方法をもっている。

一般には、臨床医こそが「ゆうしゃ」だろう。




ただ、病理医の旅において、ドラクエと違うのはここからだ。

病理医が扱う臓器は毎日異なる。

胃、大腸、肝臓、肺、乳腺、甲状腺、子宮、膀胱……。

これらは全て、病理医にとっては「異なるクエスト」である。

クエストが違うと、毎回パーティの先頭に入る臨床医が変わる。

胃のクエストでは消化器内科医や外科医。子宮なら婦人科医。膀胱なら泌尿器科医……。

ぼくらの旅では、「ゆうしゃ」がクエストごとに入れ替わるのである。

 *ゆうしゃ は さっていった!

 *あたらしい ゆうしゃ が なかまになった!



「せんし」はじっと考える。

誰が自分の相棒だろうかと。

パーティに常にいてくれて、真に相棒とすべきなのは……。



ぼくは、それは、臨床検査技師だろうと思う。




ぼくは後期研修医に、さまざまな「武器」や「防具」の話をするが、加えて、自分がパーティをくんでいる「そうりょ」である臨床検査技師の仕事を、かなり教えている。

・標本の作製。

・遺伝子検査の外注。

・検体の保存。

・プレパラートの特性。

・染色。

・細胞診。

ぼくは「せんし」であるが、気づかないうちに、「そうりょ」の魔法の数々を、後期研修医にかなり綿密に教えていた。

研修医にいわれて気づいた。

「市中病院では、こういうことも、病理医が学ばないといけないんですね。大学にいたときは、技師さんがやることはすべて技師さんに任せてしまっていて、まったく医師の側では学びませんでした。」



そうだなあ。

ぼくは、「そうりょ」とか「まほうつかい」を、すごく頼るタイプの「せんし」なんだよなあ……。

2018年4月16日月曜日

ずんの飯尾っぽさもある

毎日、スーツのジャケットを脱いで病院の中を歩いている。白衣を着ていないので、いかにもエリートサラリーマンの風貌……には絶対にならない。

基本的に昔のドラマや映画に出てくる学校の先生とか用務員さんのような風貌である。昭和の休日のお父さん(やせ形)でもよい。

なぜだろうと考えた。顔か? 顔はもうしょうがない。けれど少し考えたら理由がわかった。

サンダルだ。

ワイシャツにスーツのパンツ、ノーネクタイ。これにフィットする足下は、革靴だ。革靴しかない。

革靴なら、たぶん、サラリーマンの見た目でいられたろう。

けれどぼくはサンダルだ。

サンダルはだめだ。

一気に学校感が出る。

おもしろいなあと思う。

サンダルをときどき買い換えながら、毎日、「医者として絶妙に違和感のある身のこなし」を模索している。

ぼくは患者に会わないから白衣でいる必要がなく、かつ仕事おわりに学会や研究会に行ったり他院の病理医に会いに行くときに失礼にならないようにスーツでいたい、その両方を満たすには……と沈思黙考の末、昭和のおじさんになっていた。中年ばんざいだ。




このかっこうをしていると気づくこともある。

たとえば薬屋さんの皆さんは、ぼくと廊下ですれ違って、ぼくが会釈をしても絶対に会釈を返してくれない。医者だと思ってないからだろう。「誰と間違ってるんだろうこのおっさん」くらいにしか思っていないに違いない。

彼らもきっと、田舎道で通り過ぎた地元のひとから「こんにちは」と会釈をされたら笑顔で返事するくらいの気のいい人達であろうと思う。けれど、自分の「戦場」である病院内で、医療者というクライアントに気を配りすぎるあまり、見た目ほぼ用務員さんであるぼくには油断をしているのではないかな、と思う。無理もない。

むしろおもしろいのは医者の対応だ。

基本的に常勤医ならぼくのことを知っているから別におどろかない。廊下であえば挨拶もするし世間話もする。

けれど新入社員たちはぼくを見てまず医者だと思うことはない。

ここで差が出る。

初期研修医はぼくが素性不明のおっさんであっても会釈を返してくれる。

後期研修医だと五分五分だ。ときおり、疲れているのか、真下をずっと眺めたままぼくの会釈に気づかないことがある。

おもしろいのは10年目くらいのドクターだ。高確率でぼくを無視する。目があっていても。

そして20年目を越えるとまた挨拶してくれるようになる。

そう、10年目くらいのドクターだけは、なぜかぼくに挨拶を返してくれないのだ。これは8割以上の確率でそうなのである。



医者を10年くらいやると、いちばん、人との距離感がわからなくなる、のかもしれないなあと思っている。

その後、むしろ人らしく戻るあたりが、医者という職業のおもしろさ……。

いや、業の深さなのかもしれない。

2018年4月13日金曜日

病理の話(190) 顕微鏡あるいはその周囲にある病理診断の真髄

「顕微鏡をみないとわからないもの」をみて診断するのが我々病理医の役目である。

あらゆるモノを使って、医療者は病気の理(病理)と生命の理(生理)を判断する。そのモノというのは、まず第一に患者の声を聞き訴えを理解する問診(医療面接)であり、次に患者自身が自分では気づけていない変化をことばにする診察であり、血液検査であり、生理学検査(呼吸機能評価、心電図など)であり、各種画像検査、CTやMRIや内視鏡や超音波などである。

目で見て、手で触って、感じて、考えてわかることが無数にある。その上でなお、顕微鏡をみないとわからないものとは何か?



病気を構成する細胞ひとつひとつ。

細胞の中で起こっている遺伝子の変化や、タンパク質の変質・増減。

こういったものの一部は、いかに面接をしっかりし、画像を丁寧に読み解いても、ミクロの世界すぎて到底うかがい知ることはできない……。

できない……。



「ほんとうにそうだろうか?」

「ほんとうに、この病気は、顕微鏡をみない限り、わからないだろうか?」




たぶん、なのだが、病理医の真の役目……というか、仕事のキモはこの問いかけにある。

細胞をみることでわかったことが、次に同じような患者がやってきたときには、細胞をみなくともわかるようにならないだろうか?

これができる病理医は強い。




なんだか胃の中に周囲とは違う模様、周囲より際だってみえる色の違い、ちょっとした粘膜の高低差がある。

はじめて胃カメラで胃を覗き込んだ人は、この変化がなぜ起こるかわからない。

どうしてここだけ周りと違うんだろう?

そこでプレパラートを作り、顕微鏡で、ミクロの世界で何が起こっているだろうかと調べる。

結果、その場所では、本来決まった数だけ存在しているはずの細胞が、際限なく増えていた。細胞数の適度な調整というやつができなくなっているとわかった。細胞が無限に増え続けるような遺伝子の異常があり、これをほうっておくと、増えちゃだめなレベルまで細胞が増えてしまう。

そういうことが、顕微鏡をみて、わかったとする。

「そうかあ、この色調の違い、周囲と比べたときの違和感、少し粘膜が厚くなっているかんじは、細胞が増えているから起こっていたのか」

解釈をする。




次に胃カメラを覗くときには、その人はきっと知識がひとつ増えている。

「こないだとは別人に胃カメラを入れて調べてみたら、こないだ見たのと同じような変化を見つけたぞ」

ここで、人は考える。

「また、前回と同じように、細胞が増えているのではないだろうか」




もしかしたら、細胞が増えているのではなく、炎症で粘膜がむくんでいるだけかもしれない。

もしかしたら、細胞が増えているのではなく、アミロイドと呼ばれる特殊な物質が沈着しているだけかもしれない。

前回と、見た目はほんとうに一緒だろうか。盛り上がっているのは一緒だが、色調は全く同じだろうか。もっと胃カメラの倍率を拡大させて、細かい血管までみられるようにしたら、その見た目は何か違ってはいないだろうか……。

前回よりもはるかに深い考察を加えた後で、あらためてプレパラートを見てみる。

同じか。

違うか。

同じとしたら、どれくらい同じなのか。程度も全くいっしょか、それとも前回の病変に比べるとより派手な変化になっていたりはしないか。




さああらためて言い直そう。

「顕微鏡をみないとわからないもの」をみて診断するのが我々病理医の「第一の」役目である。さらに、当初は顕微鏡でないとわからなかったものを、たとえ顕微鏡がなくても診断に肉薄できるようにするのが、我々病理医の「第二の」役目である。

この「第二」がないと、病理医という仕事はなかなか脳内にしみ込んでこないと思う。

2018年4月12日木曜日

明日は足の爪を切る

抱えている原稿が、「一段落しなくなった」。

少し前までは、「もうこれでしめ切りのある原稿はいまのところひとつもないな」とか、「あと2か月は何も書かなくていいな」ということがあったのだが、さまざまなしめ切りがそれぞれ好き勝手なペースでやってくるようになり、書き下ろしの依頼も加わったことで、時間があれば何か書いておいたほうがいい状態で安定してしまった。

特に苦痛ではないが背負わなくてよかった荷物ではあるよなあとも思っている。




少し前に糸井重里氏が、

「このごろの世の中は、人間に人間以上のものを要求している気がする」

という内容のことを書いていたのだが、これを読んだ一番最初の感想は、

「今の全力をぶつけようと思ったら、今いる自分以上のものを見据えないとだめだからなあ。」

という反論に近いものだった。しかし、少し噛みしめているうちに感想がかわった。

「人間は常にスキルを最大まで使って生きていくようにはできていなくて、ほとんどの人間は人生の大半を人間以下の状態で暮らしている。それでも何か新しいものを得たりしているんだ。」




常に新しいことや今ある以上のものを追い求め続けるチャレンジャーの姿勢と、なるべくのんびりMP温存しながら遠回りのくり返しで少しずつレベルをあげていく週末ゲーマーの姿勢と、どちらが自分には合っているのだろう。どうもぼくはずーっと求道無限(ぐどうむげん)のやりかたをよしとしてきた。でも無限の追い求め方にもいくつかある。

世の中には無限にやることがある。足し算よりかけ算、かけ算よりべき乗のやり方でどんどんスコアを稼いでみたところで、「無限には絶対に追いつかない」。ゆっくり稼ごうが早く稼ごうがいっしょだ。追いつかないものは追いつかない。だって相手は無限だから。

自分は常に自分の最大値より弱い、人間はいつもフルアーマー人間ではない。

寄り道したりぼうっとしたりしながら、それでも新しいものごとに触れて、小さい魔法を新しく覚えて、とやっていくほうが普通なのではないかな、と考えるようになった。




抱えている原稿が、「一段落しなくなった」理由がひとつ増えていることに気づく。

しめ切りがある原稿を急いで仕上げるクセが少し弱くなっている。

今でも、しめ切り間際にがんばることはしないのだが、それでも、「2年先がしめ切りなら、半年後に書くかな」くらいののんびりさを手に入れた。その分、抱えているしめ切りの量が増えた。

そう、ぼくの抱えているしめ切りが増えたというのは、忙しくなったからではない。逆だ。

ぼくはのんびりしたい気持ちが増えたので、しめ切りも増えた。

2018年4月11日水曜日

病理の話(189) 教えて病理のはなしはいいできです

日本病理学会のホームページには、「市民の皆様へ」と称した文章がいくつも載っている。



いっぱい載ってる。

これらのうち、「教えて!病理のはなし」はマンガになっている。おっ、と思った。


ほんとはこういうのは許諾を得て転載しないといけないんだと思うが、怒られたら謝ろう。いちおう日本病理学会の「社会への情報発信委員会」にも所属しているので、活動の範囲で認めてはもらえるかなーと思う。

このマンガは絵がかわいい。分量もほどよい。「おっ、なんだなんだ?」と目を引く。誰が描いてくださったのか存じ上げないが、ツイッターにあげたらけっこうRTされたろうなあ、と思う。




その一方で、ほかの「病理診断について」とか、「病理医とは」といった項目は、なんだか字ばっかりだ。

ぼくはたぶん世の中の99%の人よりも病理に詳しく、興味があり、愛着を持っており、とにかく病理と名の付くものは全て読んでおきたいオタクだが、それでも「読みづらい」と思った。

なぜ読みづらいか?




それは、ここに書かれていることがいずれも、十分な情報量をもち、説明「すべき」内容を網羅して、正確な表現で、丁寧に書かれているから、である。

悪くないようにみえるだろう? けれどもこれでは、読む側のハードルが高すぎる。

読みやすい文章ってのは、情報量が十分とは限らず、説明「されたい」内容だけをピンポイントで示し、多少の誇張を許容しながら、丁寧に書かれているもの。

それじゃあだめだろ、学会のホームページなんだから。

科学は、第一に、正確でなければ!

うん、そういう判断はよくわかる。

けれど、自戒をこめてあえていう。

  病理医のいうことは正確で、わかりづらい。





フラジャイルというマンガ・ドラマがあらわれるまで、ほとんど誰も病理医に興味を示さなかった理由がわかる。

網羅しすぎ。厳密すぎ。

病理だけではなく学術全般にいえることかもしれない。

だからぼくは今まで、病理学会の広報活動をあまりリンクで貼ることができなかった。




ところが、おかたい病理学会はついにマンガを導入した。それも、会員が趣味で書いたレベルのマンガではなく、フルカラーできちんとコマ割りされた、マンガ然としたマンガ。セリフが多いのはご愛敬だ、とにかく最後まで読ませる力がある。たいしたもんだ。




ぼくは学術をめぐる「広報」についての意識がかわってきたのかな、と感じる。

ぼくが書くとおかしいかもしれないけれど、病理医というのはかなり「寿命の長い仕事」で、学会にはそうとうな高齢者もかなり強く影響力をもっている。ほかの臨床科に比べると、現役の大エースの平均年齢は10歳くらい上かもしれない。

そんな病理学会がマンガを普通に導入していたことを手放しで喜んでいる。

自分たちが言いたいことだけを言うのではなく、読み手が読みたいものを提供しようという気概を感じる。




今ぼくは、若い医者が病理学会にくるとけっこうおもしろいことができるのではないかなと思いはじめた。

ツイッターをはじめたころは絶望のほうが強かった。

この業界、ほんとに大丈夫なのかいな、と思っていた。

やってることが高度すぎる。日本の知性の最上位みたいな人たちは安心して病理医になって、ぼくみたいな場末のザコを駆逐してくれるだろう。

けど、天才数人だけで病理学会を運営するってのは物理的に難しいだろう。

今のやり方だと、「大天才ではないかもしれないが、ふつうの医者として仲良くやさしくやっていけるタイプの人」が、病理の世界に入ってこられないんじゃないかな、なんて勝手に心配していた。




なんだかその心配はぼくの勝手な妄想だったように思えてくる。

次の目標として……説明を全部マンガにしてほしい気もするが……。やはり、マンガというのは一部の人にとっては「ふざけている」ように思われるかもしれない。

ここはひとつ、「まじめな文章をより読みやすくする作業」をすべきかなあ、と思う。

文章を書き換えるのもいいかもしれないけど、ホームページに載っている文章はどれも厳密で真摯だし、無駄にするのももったいない。

そしたらどうするか。




より商業的な目線をもっているウェブサイトデザイナーに、ホームページの一部をアレンジしてもらったらいいんじゃないかなあ……。

まあこのこと自体は3年くらい前に考え付いて、それからツイッターでちょろちょろ、「読ませるウェブサイト」を作っている人気ライターや編集者のことを追っかけてはいたんだけど……。

そろそろ企画の出し時じゃないかなあ、とか、そういうことを思っている。どうも、日本病理学会・社会への情報発信委員会です。


2018年4月10日火曜日

姜子牙というとてもラノベに向いた名前

帯広の病院から転勤してきた技師さんのおみやげである十勝あずきもなか(こしあん)を食っていたら、研修医がデスクにやってきて、二言三言相談をもちかけられた。

研修医は去り際に、デスクに向かうぼくをみてこう言った。

「先生のその仕事スタイル、うらやましいです」

「だろ」

「病理医ってみんなこうなんですか」

「こう とは」

「昼間にデスクでもなか食べながらイヤホンで音楽聴いてブログの更新とかしてるんですよね」

「うむ」

「うらやましいです」

「だろ」




ときおり初期研修医がうらやましく感じる。

非医療者として暮らしてきた人生の川から医療界という海に流れ込んだばかり。

汽水域には栄養が集まり、よい漁場が形成されている。

必死で釣り糸を垂らして魚をとろうとする。けれどまずは針糸の結び方からだ。

揺れる舟の上でがんばって仕掛けを作る。

先輩は真っ黒に日焼けして、手際よく舟を動かしながら、ときどき沖の雲行きなども気にしつつ、景気のいい声を四方に飛ばしている。

ぼくはそれを護岸から眺めている。

いいなあ、ああいう時代はぼくにはなかった。




猟師がこちらに向かって叫ぶ。「相変わらずの太公望は楽しそうでいいなあ!」

ぼくも手を振って答える。

そろそろ潜水艦のエンジンをかけようかな、なんて思っている。




もなかを食べたらお茶がのみたくなった。病院1階のローソンに降りていくと他科の医師がいた。あいさつをする。

「お疲れ様です。先生いまから昼飯ですか? あいかわらずお忙しそうですね」

「まさかまさかたいしたことないですよ。お茶買いにきただけです」

横に先ほどの研修医がいた。目を丸くしてこちらを見ている。

「だろ」という目で返しておく。

2018年4月9日月曜日

病理の話(188) 遺伝子プログラム大辞典完全版

体の中にあるさまざまな細胞は、いずれもDNAというプログラム……というかプログラムの書かれた本をもっている。

おもしろいなあと思うのは。

目にある網膜を作る細胞の中にも、肌にある汗を作る細胞の中にも、胃の粘膜の細胞の中にも、すべて、同じ本がある、ということだ。

広辞苑の何億倍という量の情報が書き込まれた、「遺伝子プログラム大辞典完全版」が、全細胞に1つずつ備え付けられている。

一家に一冊、DNA。ぜいたくな話だよ。




全身の細胞は、存在する場所や役割に応じて、「違うページ」を開いてプログラムを読む。

ほとんどすべての細胞が開かないといけない共通ページというのもある。その一方で、ある一部の細胞しか開かないマニアックなプログラムも、全員の本の中にすべて書き込まれている。

ふしぎなシステム。

筋肉細胞が、脂肪細胞の使うプログラムを読むことはほとんどないだろうに、全員が同じ本を持っているのである。




元は1つの受精卵だった細胞が、分裂を繰り返す過程で、「これからそっちで働く君は、辞典のこのページだけを持って行きなさい」、「あっちで働く君は辞典のこっちの章だけを持って行きなさい」と、個別に違うプログラムを割り当てるやり方もありえただろう。

けれど、進化の歴史は、そのやり方を選ばなかった。「全細胞に同じ本」を持たせた。

非効率にも見えるが、結局これが一番エラーが少なかったのだろう。

本を破って渡すというのは、やっぱり本を傷めてしまうと思う。



さて、細胞全員が同じ本を持っている状況ではあるが……。

実は、細胞ごとに、よく使うページに付箋やしおりを挟んでいたり、逆にあまり使わないページをテープやホチキスで閉じていたりする。このしおりやホチキスの使い方が細胞ごとに異なる。

DNAやヒストンのアセチル化、メチル化といったことばを見たことがある人もいるだろう。これらは、ざっくりいえば、しおりやホチキスだ。

みな同じ辞典を持っていても、同じ見た目ではないということである。

本をギラッギラにデコって使っているBリンパ球のB子ちゃんもいれば、読むところをさっと読んであとはラミネートパックしてほとんど鑑賞用みたいにしてしまっている赤血球のR夫くんもいる(ちなみにR夫くんは若いうちに本を捨ててしまい、包丁いっぽんで生き残ろうとするさすらいの料理人みたいなやつだ)。




細胞たちが、もとはひとつの受精卵だった証として持っている分厚い辞典は、それぞれが役割分担をするうちに少しずつ見た目を変えていく。

臓器が変われば本の見た目が異なる。

胃と肝臓と足の裏で装丁がまるで違う。

でも、書いている内容は、実は同じ。

これがDNAだ。





「遺伝子プログラム大辞典完全版」は、新しい細胞が生まれるたびに1冊ずつ完全コピーされる。

落丁は許されない。誤植も許されない。

ちょっとした誤植が「そもそも開かれないページ」に存在した場合は、あまり大きな影響はないのだが。

「頻繁に開かれるページ」に存在すると、間違ったプログラムによって細胞は盛大にバグる。




誤植だ! とわかったら、その本はなんと、細胞ごと抹消される。回収とかしない。上からシールを貼ってごまかすこともない(今、実際にはあるなあ、と思ったけどその話をすると長くなる)。

けれども、誤植が誤植と気づかないくらい巧妙(?)なやつだと……。

間違ったプログラムを発動する細胞は、生き残る。

生き残って子孫を残す。誤植の本を誤植のままコピーしながら。




細胞にも寿命がある。けれどもその細胞の「寿命を司るプログラム」に誤植があり、運悪く「永遠の命」をもつ細胞になってしまう場合がある。

天文学的な数字を分母にもつ、極めて低確率ではあるのだが、そういうことがある。

永遠の命を持った細胞が、延々と細胞分裂を繰り返し、複数の誤植をコピーし続けて、誤植がどんどんと蓄積して……。





……そんなにミスが積み重なることなんて有り得るの?




有り得るのだ。それをひとは俗に、「がん」と呼んでいる。




がんを遺伝子で診断するというのがいうほど簡単ではないということがおわかりだろう。

細胞ごとに同じ内容が記載された、「遺伝子プログラム大辞典完全版」。

けれど細胞ごとに違うデコレーションがされている。よく開くページ、閉じられてしまっているページ。

その中から意味のある誤植をみつけて、それが細胞にバグをもたらしていることを発見しなければいけない。

誤植は1箇所とか2箇所とかじゃないぞ。一説には100とも1000ともいわれている。

指先にある細胞の「遺伝子プログラム大辞典完全版」を読んで誤植をみつけたからといって、それが胃の細胞でも同じように誤植となっているかどうかはわからないぞ。

どの誤植が細胞にとって重要なバグをもたらしているかも難しいぞ。





医学研究、特にがんの研究をするというのは、「遺伝子プログラム大辞典完全版」を、最新のデコ情報まで含めて何度も何度も読み直し、調べ尽くす作業に似ている。

2018年4月6日金曜日

びょうりし言いたいだけちゃうん

サンダルがぼろぼろで、劣化したゴムが色落ちしているのを見て、そうだ、サンダルくらい買えばいいんだ、オトナなんだから、とふと思った。

直後に、そういえばノートPCのキーボードがぼろぼろだったな、と思って外付けのキーボードを買いたくなった。

いずれもAmazonで探したら、そこそこマシなのが1980円くらいで手に入る。

いずれも40をむかえようという中年が仕事をする上で必要な品である。胸を張っていいものを買えばいい。サンダルは8000円くらい出すとすごくよさそうなのがある。キーボードなら30000円で薄くて無線接続できるやつが手に入る。

けれども、なんだろう、サンダルやキーボード「ごときに」大金を使うことに対するうしろめたさ。

使えば満足するんだから、いいものを買おう、とネットでほいほい金を支払うことに対する抵抗感。




これはあれだ、「FFで中盤のボス相手にエーテルやエリクサーを使うぜいたくさ」といっしょだ。前に誰かがブログに書いてあったのを読んだことがある。これだ、これだ、と腑に落ちた。ぼくもまた、多くの子供達とおなじように、FFでエーテルやエリクサーを使うのが苦手なタイプだったから、あの記事を読んだときにはすごく納得したのだ。

さらにいえば、ぼくは、

「ナイトやにんじゃで戦い続けた方が楽なのに、終盤に役立つからと聞いて、攻撃力のいまいち足りないシーフやかりゅうどを先にせこせこマスターするタイプ」

でもあった。




序盤から中盤まで(具体的には石版を4つ集めて12の武器をすべて開放し終わるくらいまで)は、決して「その時点で最強のジョブ」を選ばず、あくまで、マスターしておくとあとで便利だといわれているジョブを使って苦労して中ボスを倒す。

あとで役に立つように。将来の自分が困らないように。何があっても大丈夫なように。

終盤、パーティーは劇的に強くなる。ものまねしを導入することで、せこせことマスターしたシーフやかりゅうどのアビリティがすべて使えるようになる(ものまねしとすっぴんは、マスターしたジョブの能力を引き継ぎ、複数のアビリティを搭載することができる)。

高速移動に隠し通路発見、にとうりゅう+みだれうち。クイックメテオれんぞくま。

オメガやしんりゅうに手を出さなければ負けることはない。ラスボスだって余裕である。

一番つらかったボスはラスボスではない。中盤、仲間の一人にのりうつっていたおっぱい魔人みたいな中ボスと戦ったときが一番きつかった。ジョブもアイテムも、「将来に備えて」出し惜しみしていたころだからな。



思えばぼくは、FFVをプレイしている間ずっと、MPを節約するためにファイラもブリザラも数えるほどしか撃たなかった。属性にあわせた戦い方ができるようなパーティも組んだ記憶がない。特にザコ戦のときは、ひたすら物理で殴っていた。時間はかかるし、なんなら回復魔法の回数も増えてしまうのだが(それに気づかなかったのはバカだなと思う)、なるべく攻撃魔法を使わずにMPを節約した。突然出てきた中ボス戦でMPが尽きて、エーテルを3個も使うのがいやだった。



節制して、努力して、つらい目にあって、せこせこ集めた実力で、後半のボス戦は楽勝になる。ストーリー的に最もしびれる戦いになるはずのエクスデス戦もほぼ作業である。8回連続攻撃やクイックメテオれんぞくまものまね3連発を黙々と放つ。まあ、快感ではある。






今のぼくは、サンダルとキーボードを「買う」ところまで思い至った分、かつてのFFV少年よりもだいぶマシだ。

当時なら、「まだ履ける、まだ打てる」と、そもそも購入しなかっただろう。使える金の量はMPみたいなものだ。当時の節制にケチをつけるつもりはない。あのころの少年がぼくを見たら、

「そんなところで金使っちゃうの? もったいない、いつか何かに使わなきゃいけなくなるかもしれないのに」

と、少し震えるかもしれない。

悪いな、少年。社会人なんだ、多少の魔法くらいは使わせてもらう。

けれど、今のぼくは、くろまどうしでファイガを連発するとか、しょうかんしでシルドラを連発するほどの気持ちには、なれない。

レベル3までの白魔法と黒魔法でがまんする、あかまどうしを選ぶ。これを先にマスターすれば、あとで「れんぞくま」が使えて便利だから。今はがまんだ。大丈夫、あかまどうしなら通常攻撃もそこそこいける。

まずはジョブレベルアップを優先したい。MPに溺れた刹那の戦い方は選ばない。





こういう話をすると、たまにいわれる。

ファイガくらい普通に撃てばいいじゃん。MPあるんだろ。

なにもわかってねぇなあ。ジョブの根本が理解できていない。




びょうりしは、マスターするまで、物理で殴る。MPの上限値はさほど高くなく、攻撃力も高くはないが、それでも物理で殴る。

Ph.D.をとってもマスターではない(これはギャグです)。

専門医をとってもマスターではない。

指導医だってもってる。評議員にもなる。けれどマスターではない。

だったらびょうりしは物理で殴る。

そういうジョブなのだ。MPは節約してしまう。これはもう染みついてしまっているのだ。




マスターとかラスボスという概念が存在しないゲームかもしれないが。

2018年4月5日木曜日

病理の話(187) 検査前確率をきちんと考えろという話

そこらへんを歩いている人を片っ端からMRIで撮像するとどうなるだろう。

渋谷の交差点に設置しておくのだ。通りがかる人をランダムにうつしとる画像診断装置を。

羽田空港のセキュリティのところに潜ませてもよいだろう。

倫理? 知ったことではない! わははは! みたいなエライ人に、試しに一度やってもらいたい。



きっと何の意味もないとわかる。



何の意味もないってことはないだろう! と人はいう。

けれども、症状がなく元気に歩き回っている状態で、ただ「異常なカゲが写っている」とき、それが病気である確率は低い。



これから書く内容はまだ完全に証明された話ではないので、あくまでここだけの「話のタネ」として読んでいただきたいのだが。

近年、「腰のヘルニア」は画像だけで判断してはいけないのではないか、という説が出始めている。

世の中の人々をめったやたらにMRI撮像すると、思った以上に「ヘルニアになっていておかしくない腰椎・腰髄」がうつってくるのだという。

ヘルニアの人ばかり集めてきて撮った写真と、同じような形をした腰というのがそこら中に平気で歩いている、というのだ。

ぼくらは常々考えていた、「病気の人を2000人くらい集めて調べれば、病気の人に共通する特徴があるだろう」と。

でも、病気の人だけ集めても、どうやらだめだったらしい。

なんの症状もなく元気に暮らしている人を20000人くらい集めると、その中には「ヘルニアっぽい腰」がいっぱいまぎれていたのだ。

もちろん、そういう人の中の幾人かは将来ヘルニアを発症するかもしれないが。

生涯そのまま、腰に何の不自由もなくやっていく人もいる。




長生きしたい大富豪は、全身をカバーする画像検査を毎年受けるという。

けれどそれで見つかる「異常」は、ほんとうに生命に関わる異常なのかは微妙だ。症状すら出ないこともある。




では病気はどうやって見つけるのがよいか?

不特定多数にやたらめったら写真を撮ってもだめだ。

「こういう人だったら、異常がみつかったときにそれが”意味のある病気”である確率が高い」という、クラスタをしぼりこむことが必要なのである。



腰のヘルニアを見つけようと思ったら、まずはアンケートを採るのがいい。

痛いですか。しびれますか。姿勢によってしびれの度合いが変わりますか。

こういったアンケートで「この人はヘルニアになっている可能性が高い」とわかってから……「ヘルニアクラスタ」をしぼりこんでから、画像検査を行う。

そうすると、画像のわずかな異常にも「意味」が含まれている可能性がぐっと上がる。




以上の話は現代診断学の基礎中の基礎であり、かつ、診断学を学んだことのない人にとっては「えっ、そういうものなの?」と驚かれてしまう。

全員に遺伝子検査をしてもだめだ。

全員に免疫染色をしてもだめだ。

診断を適切に行うためには、最初から「キワッキワの専門検査」をしてもだめなのだ。

まずは話を聞く。顔色をみる。症状を把握する。

そうして「クラスタ分け」をしてからでないと、正しい診断は出ない。




かつて、NHK「ドクターG」をみていたころ、タイムラインにはしばしば医療系学生がおり、

「こんなしちめんどうくさい問診してないでさっさとCT撮ればいいのに」

などと発言していた。

あれから数年が経ち、彼らは立派な臨床医となり……。

先日、そのひとりをみつけたのだ。彼(女)は仕事中の話を決してツイートしないタイプのすぐれたツイッタラーになっていた。

ただ、思わず漏れたのだろうな、これはおそらく仕事の話だろう、というツイートをみかけた。



「やっぱ問診なんだな」



ぼくは、そうだろう、そうだろうと納得したのだ。

2018年4月4日水曜日

なんでピッコロさんは名字でよぶの

「いい睡眠をするには」みたいな秘訣をテレビでやっていたのでさっそく試してみたのだが、自分が寝ている間のことは自分ではよくわからない。

昼間眠くなっていなければよい睡眠が取れている証拠、みたいなことをいっているけれども、つまらない本を読んでいたら即座に眠くなるのは別に睡眠の質とは関係ないようにも思う。毎日やっていることが少しずつ違うのに、今日は昼休みに眠くなった、昨日はならなかったと比べるのも何か違う気がする。

要はぼくはそれほど睡眠の質が悪くないのだと思う。だから大丈夫だ。いい睡眠をとろうとするのはやめることにした。きっと、ぼくは、そこそこいい睡眠をとっているはずだから。

だいたい、いい睡眠のために夕方軽い運動をしましょうとか、めんどうでやる気がしない。寝るときの姿勢くらい自分の好きにさせてほしい……。




こうしておいたらきっといいことがあるよ的な文脈で、毎日少しずつ「損」をするやりかたがある。

その損というのが、金銭なのか手間なのかはともかくとして。

こまめに水回りを掃除するとか、ポイントカードを財布に入れておくとか。

ぼくという一個体を考えても、あの手間は惜しんでないけどこっちの手間は惜しんでいるなあ、みたいなことがある。掃除は好きだがポイントカードはほのかに嫌いだ。減塩は苦にならない。運動は苦ではないが面倒。睡眠は好きだが睡眠の質について考えることは嫌いだ。

ただそれだけのこと、なのかもしれない。




がんばって勉強したら将来いいことがあるよ、と親にいわれた記憶は……ない。身近な人間にもいわれていないと思う。

けど、本で読んだかテレビでみたか、誰かにいわれた気になって、がんばって勉強をした結果、「ずっと勉強し続けることで生活が保たれる人」となった。この「損」は果たして損だったろうかと考える。

2018年4月3日火曜日

病理の話(186) 読める字で書けば読めないがんを読める

臨床医の置き手紙が読めない。頭を抱えている。

横には、プレパラート。臨床医が自分で見たのだろう。病理検査室には誰でも使える共用の顕微鏡がある。熱心な臨床医は夜中や朝方に病理検査室に忍び込んで、自分の担当患者のプレパラートを自分でみて考える。

「○○と思って治療したんですけど」のあとが読めない。

参ったな。

プレパラートをみる。手術された検体だ。がんがある。担当した内科医は、「この病気はがんであろう」と考えて外科に手術を依頼した。外科は手術を行って臓器の一部をとった。何も間違ってはいない。

がんを詳しくみる。かつて自分で一度診断した人だ。

Aというタイプのがんで、○cmほどの範囲に広がっていて、□までしみ込んでいる。

病理診断はさほど難しくはない。

しかし……。



「がん細胞が少量ずつ集まって正常組織にしみ込んでいるのだが、ひとつひとつの『ユニット』のサイズが小さく、少数精鋭の騎馬隊が戦場のあちこちに散らばっていくように、ユニットとユニットの距離が広いなあ」

と思う。



ちょっと図で書いて説明しよう。がん細胞を騎馬隊に例えたが、ひとつひとつのユニットを「T」としよう。

T T T T T T T T T T T

これでユニットが11個、横に並んでいるところを表現したつもり。

左から右まで、たとえば5cmあるとする。病理診断書にはたとえば「病変範囲 5cm」のように記載する。

ところで、こういう場合もある。

T n T n T n T n T n T

「n」はがんではない。なんか戦場に生えている木だとでもしよう。

これも、がんの「範囲」は、同じ5cmだ。端から端までの距離を測れば。



けれども、「見つけやすさ」はまるで違うのである。

前者と後者では、ユニットどうしの距離が違う。間に、騎馬隊とは違う「背景」もまじっている。

後者のほうが、より、「ユニットが正常にまぎれている」ことになり、発見しづらい。



同じ5cmのがんなのに、だ。




クッソ汚くて読めない臨床医の手紙をスタッフ総出で解読する。「○○と思って治療したんですけど」は、どうやら、「もっと小さい病変と思って治療したんですけど」のようだ。

がんであることは間違っていなかった。治療選択も手術でよかった。手術は滞りなく行われ、病変はすべて採り切れていた。

けれども、一番最初に診断した内科医は、がんの範囲を正確に読み切れなかった。

戦場に広がる騎馬隊のうち、ゲリラ部隊のように横にひそんでいたユニットまではわからなかったのだろう。




臨床診断ではしばしばこういうことが起こるので、外科医もそのへんは了解していて、「事前に読んだ範囲よりも広めに臓器を切除する」とか、「別の方法で範囲を判断する」ということを慎重に行う。だから、一番最初の読み違いのために治療がうまくいかなくなるというケースはまれである。

しかし……内科医は悔しかったのだろう。

だから病理をみに来た。自分でプレパラートをみて理由を探した。そして、ぼくに置き手紙をした。



「市原君はどう思いますか」。



実に見上げた臨床医ではないか。ひとつ問題があるとすれば、「市原君」が読めないくらいクッソ汚い字だということだ。自分の名前を読むのに5分もかけるとがっかりする。電子カルテ時代が来たおかげで重要な臨床文書はほとんど活字で手に入るようになったが、昔の病理医はさぞかし大変だったろうなあ。

2018年4月2日月曜日

七色の軽蔑

年度が代わる。どこかに住んでいる息子もきっと進級するだろう。

ぼくはいい年をした中年が「あいつとは同い年だけど学年が2個違うんだ、俺は留年したからなw」みたいなことをいうのを聞いて「いつまで学生気分だよバカじゃないの」と思うタイプなのだけれど、それでも3月から4月になるときにはつい「学年がかわる」という気分にひたる。学生気分はぼくの方だ。同族嫌悪ということばもある。

まあでも学生気分とはいうけれど、学生のころの思い出なんてすごいスピードで後方に吹っ飛んでしまい、もう何も思い出せない。当時写真を撮っていなかったからか、思い返す機会もよすがもないまま年を取ったらそのまま忘却してしまった。

一方で、スマホを持って以来ことあるごとに写真を撮っている今の思い出が将来に残るかというと、これもめっきり自信がない。たぶん、手軽に写真を撮り過ぎているから、ひとつひとつの写真の由来をまったく思い出せないはずだ。

記録しなければ思い出せず、記録しすぎても思い出せない、ほどよい記録の仕方というのがわからない。



年度末なので仕事の業績をまとめていた。「この論文を書いたときは誰々にだいぶ迷惑をかけたなあ」とか、「あのときのお礼をお歳暮で送るつもりだったのに忘れていたなあ、まずいまずい」とか、仕事相手のことをぽろぽろと思い出す。

おお、おそらく、業績が全くなければ仕事の記憶は残らなかったろうし、どこぞの教授みたいに業績がありすぎてもきっと一つ一つの仕事の記憶は残らなかったろう。そうか、怒られもせずほめられない程度の、ほどよい業績をあげてきたからこそ得られた恩恵だ。

「業績は残しすぎては思い出にできない」。

今後、座右の銘としよう。かっこいい。うちで研修をする研修医たちもきっとぼくのことを尊敬するに違いない。