2017年1月31日火曜日

病理の話(43) バーチャルスライド黎明期のメール

※今回の記事は、友人の病理医からのメールに対するぼくの返信です。友人の用件は、「バーチャルスライド(VS)システム」をどう活用するか、という話でした。

VSとは、プレパラートを強拡大ですべてスキャンし、PCに取り込んで、まるで顕微鏡で見ているかのようにモニタ上で動かすことができるシステムです。拡大・縮小思いのままで、PCさえあればどんな場所でもディスカッションができます。プレパラート1枚あたりの容量が数百メガあるため、テラバイトレベルのサーバーが必要となりますが、今後急速に普及していくことと思われます。


---(以降、ぼくの返事)---



そうですか、○○社のVSをお使いなのはよいですね。

札幌拡大内視鏡研究会などで使うのもいいかなあとは思うのですが、
○○○(とある出版物)に導入できたら時代が変わるでしょう。
ただ、現状ではID管理にまつわる諸問題がありますので、
出版物との紐付けには十分に注意しなければいけません。

そして、そこを注意できるのはたぶん我々の世代です。
やるべきでしょうねえ。



ちょっと話を変えます。



最近考えていたことなのですが、我々病理診断医は「分類」を行うのが主業務です。
分類とは組織型に限らず、深達度にしても、脈管侵襲にしても、
粘液形質にしても、あるいは遺伝子変異の形態にしても、すべてを含みます。

この頃は、「そもそも分類学とは何なのか」というのを勉強しています。

分類学とは
(1)「主に形態を用いて、クラスタを分けるやり方(形態分類思考)」
(2)「主に遺伝子などを用いて、系統樹を書くやり方(系統樹思考)」
(3)「主に統計学を用いて、実臨床でのインパクトを元に対応をわけるやり方(統計思考)」
の3本柱で行われるべきものなのかなあと思っています。


病理医が大学院で研究する遺伝子・タンパク・エピゲノム修飾などは
分類をより適正化するため、治療のターゲットを選ぶためなどいろいろな理由を添えられていますが、
これは実は(2)「系統樹思考」を補完する手段です。

遺伝子やタンパクなどの変異がもたらす疾病の姿というのは、
形態だけではなく、時間情報、さらには治療のターゲットとしてのとっかかりなど
さまざまな「縦軸」を与えてくれます。
遺伝子検索ができなかった時代が形態だけの2次元思考だったとすると、
遺伝子解析の登場により、我々は3次元の解析ができるようになった、と考えます。

また、臨床医が偉くなるときに必要なEvidenceの構築は、
(3)を補完する手段です。
分類が机上の空論で終わらないために、
さらには、数ある分類のどれがもっとも仮説として優れているのかを検証するために、
統計こそは最高の武器となります。


我々が医療界でのし上がっていこうと思ったら、
(2)「系統樹思考」と(3)「統計思考」とをきちんと勉強していかなければいけません。

先生は大学院研究において(2)系統樹を書くための技術や思考方法を身につけられていると思います。
さらに、臨床医にまじってがんがん仕事をすることで、
(3)統計思考もきちんと育てていらっしゃいます。

そして。

最初の矢である(1)「形態分類思考」をないがしろにしてはいけないだろうなあと
最近あらためて思うようになりました。

1本目の矢を全力で放てるのは、数ある医師の中でも、我々病理医だけだからです。


ともすれば研究会での臨床画像・病理対比はimpact factor 0の研究であるとか
役には立つけど出世はできないとか、いろいろ言われて来ました。
しかし、今、先生に熱い視線を送っている臨床医はみな、
先生の形態解析にぐっと来ています。結局、そういうことなんです。

昔は、形態を大事にした病理医がいっぱいいました。
今もいますけど(あの有名な○○先生だってそうです)。
けど、若手にはほとんどいません。
これは、彼らが、2番目と3番目の矢の強さに心を奪われているからです。

ほんとうはぼくが「1番目の矢」を一手に担って、
病理業界の3本の矢を引き受ける役をやればいいんだなと思っていました。
しかし、先生が登場したおかげで、ぼくの負担は激減しましたし、
ぼくの野望は半分ついえました。

織田信長を見ていた斎藤道三はこんな気持ちだったんでしょうかねえ。


今ぼくは、先生が業界のトップになる日を想像しています。
先生にはそれくらいのポテンシャルがあります。
お忙しいとは存じますが、先生は2番目と3番目の矢を持ちながらも
1番目の矢を極める可能性を秘めた病理医だと思います。

力を圧倒的なものにするためには、「VSを使った対比」でも
圧倒的なパフォーマンスを身につけていかなければいけません。
少なくともぼくを含めて、先生より上の医師たちは
VSを使った対比よりもPowerpointを使った対比のほうが上手ですし、
より多くの情報を伝えることができています。

けれど、これからは、VSです。
VSを使った研究会、あるいは教科書、そういったものを、
先生主導できちんとやっていくべきだと思いました。

ぼくの脳を貸しますので、戦略的に行きましょう。
ぜひ登り詰めてください。

ヒントをひとつお出しします。
VS対比には、「その場で書きこめるペン」が必要です。
あるいは、「その場でキーワードが表示されるモニタ」でもいいです。
組織に対する理解が少ない臨床医をターゲットに、
短い時間でどこまで先生のことばを脳に突き刺せるかを考えながら、
VSを活用したらよいと思います。


市原 真 拝

2017年1月30日月曜日

フリックネイティブ世代はそんなこと言わない

何か書きたい事があってブログを書こうと思ったときに手元にスマホしかない場合、かまわねぇよかまわねぇよ、とスマホでさくさく書けてしまうときと、スマホじゃきついな、PCがあるときにしよう、と後回しにするときとがある。

いざ、PCを前にして、ようしPCだから文章の入れ替えも簡単だし全体を俯瞰しながらバランスをとるのもラクだぞ、さあ書くぞ! と、書いてみて、いまいちで、全部消してしまう、ということが、よくある。

スマホでさくさく書いた記事のほうが、あとあとまで印象に残ったりもする。



スマホでも書けそうだなと思った記事、というのは、すでに頭の中で完成しているのだろう。だから、インターフェースがスマホのフリックであっても、さほど気にならずにすいすい書けてしまう。

一方、PCじゃないと厳しいなと思った記事は、頭の中でもやもやと散乱しているものをうまく集め切れていない、まだまとまりきっていない。文章をとっかえひっかえ、あちらをいじりこちらに付け足し、とやっているうちに、なんだか着地点がわからなくなってくる。

だから、スマホの記事の方が、おさまりがいいのだろう。



さて、ぼくは今、PCを使った記事を、今までよりももう少し大事にしようと思い始めた。

まとまりきっていない内容を、なんとかカタチにすることは、すでに頭の中で落ち着いてしまった観念をただ出力するのとはひと味違った喜びがあるのではないか、と。

病理に興味のある人間のために書いている「病理の話」シリーズは、大半スマホで書いている。きちんとまとまった内容を世に出して、病理のことを考えてもらうのは、うれしい。病理医になってからずっと考えていたことばかりだから、ネタには不自由しない。ネタも、オチも、困ってはいない。

で、それとは別に、病理の話の箸休めとして書いているこの「ノンジャンル」の方は、スマホで頭からただ出力するのではなく、もやもやした不定形な思考を、なんとか人が読める程度の話に整形して書くようにしたいと思い、なるべくスマホではなく、PCで書くようにしている。



なぜ、病理の話と、病理じゃない話を、交互に書くのですか? と聞かれても、なんかそのほうがいいんじゃないかなあと思ったから、としか言えなかった。けれど、思った以上に合理的だった。

人間、おそらく誰もが、まとまった話と、まとまっていない話を、両方話したがっているのではないかと思うのだ。ぼくも、そうだ。

2017年1月27日金曜日

病理の話(42) AI雑感2017初春

AI(人工知能)によって一番さいしょに仕事がなくなるのが病理医ではないか、みたいな話をたまに聞くようになったので、興味があっていろいろ調べている。「病理診断をする人間」の最後の世代となる可能性だって、あるんだ。覚悟はしておかなければいけない。そう思って、そもそもAIが何をしてくれるのか、将来なにができそうなのかということを、いろいろ調べてみた。

1.コンピュータ技術が進歩することで、人間が「絵合わせ」をやらなくてよくなるかもしれない。AIがプレパラートを見て、そこにある細胞や、細胞が作りなす構造を解析して、これは腺癌だ、これは扁平上皮癌だと、自動で判定してくれるシステム。これは、実現可能だろうか?指紋認証、虹彩認証、そして顔認証がどんどん実用化する昨今、そこにある形態を解析して分類する作業は、おそらくコンピュータに任せられるようになるだろう。だから、実現可能だ。病理医が、仮に、「プレパラートを見て、この病気はこういう名前ですと言うだけの仕事」であったならば、いずれ確実にAIによって、とってかわられるだろう。

2.細胞の形だけではなく、その裏に存在する遺伝子変異や染色体異常、DNAやヒストンのメチル化の違いなどを判断するシステムについては、どうか? 今や、病気の元となった細胞については、形だけではなくて、裏にある遺伝子まで検索しないと適切な治療ができない時代である。だから、病理医はしばしば、プレパラートだけではなくて、遺伝子解析の結果にも口を出す。これも、いずれは自動化するだろう。むしろコンピュータ解析の独壇場である。無数に存在する遺伝子のどこがどう変わったかを見極めるのは、そもそも人よりも機械のほうが向いている。

3.病気を、どのように分類したら、現場にとって一番役に立つだろうか。どういう分け方が、患者さんにとって一番利益をもたらすだろうか。いろいろな仮説を立てて、この病気とこの病気をひとくくりにして同じ治療をしたらよい、とか、この病気はある遺伝子の変化ごとに何種類かに再分類したほうがよいとか、そういった「分類方法を考える」こと。学会などがさんざん取り組んでいる。有識者、お偉方、業界の権威が、何度も何度も顔を突き合わせては、日々、妥当な分類を考えている。さまざまな分類方法を「仮説」として用意して、どの仮説が一番妥当かを探す作業。各方面にお伺いを立てながら、いくつも考えられる分類のなかから「これぞ」という分類を選ぶ作業。病理医として駆け上がっていくならば、いつかはこの「分類を考える学者」にならなければいけない、とは思う。実は、これこそ、AIの得意とする、AIが今後やっていかなければいけない世界なのだそうだ。「複数の仮説の中から、どれが一番いいかを選ぶ」。これを繰り返すのが、そもそもAIなのだそうである。

調べれば調べるほど、遠い未来……というか、そう遠くもない未来に、多くの領域で、病理医がAIに勝てなくなるであろうことが予想される。人間が用済みになる未来が思い浮かぶ。

そして、細かく考えれば考えるほど、病理医以外のあらゆる医者も、必要なくなるのだろうなあ、という気がしてくる。

患者の話を聞き、診察をし、検査値を考えて、画像をオーダーし、治療を考えるという一連の知的作業は、すべて、いずれはAIで代替可能なのだ。だったらあらゆる内科医は必要なくなってしまう。

外科医は必要だろうとか、心臓カテーテルをやる循環器内科医は要るんじゃないかとかとか、救急の医者はいつまでも必要だろうと考えてみても、結局これらの中の「知的作業」をAIが変わってくれる未来では、そもそも、「医者が高学歴であることが必要がない」。必要なのは知的作業ではなくて、体力と気力になってくるからだ。脳を使う作業はすべてAIがやってくれるとなると、外科医だろうが救急だろうが、別に医学部を出ている必要はない。AIの示した手法を、判断早く、正確にやれる「職人」を育てておけば、医学部で6年間も勉強する必要はなくなってしまう。

将来的には、医者という仕事が消滅し、「医術士」のような極めて体育会系の仕事が新たに登場するのかもしれない。



「AIが発達したら一番さいしょになくなるのは病理医でしょ? だったら病理には進みたくないな」みたいなことを言う医学生に、たまに出会う。

大丈夫、病理医が必要なくなった未来では、そもそも医者自体が必要なくなっているんだよ、と答える。

「まさか! だって、切ったり縫ったり、処置をする医者はぜったい必要でしょう? 病理みたいに、脳しか使わない科と違って、ふつうの医者はいろいろ手を動かすんですから、なくなるわけがないですよ」
という人がいる。

手を動かすだけの仕事のために、わざわざ医学部で6年間も勉強して、大学を出てから研修を5年もやると思う? 病理が全く必要なくなるほどAIが発達した未来には、医者という職業自体が必要ないんだよ、と思う。

けど、これをそのまま伝えてしまうと、なんだか、医者って何なんだろう、とむなしくなってしまう気がして、ぼくは、少しだまって、下を向く。

どうもまだ、考える余地がある気がする。

2017年1月26日木曜日

アードベッグが飲みたいかんじがした

最近減ったのだが、でも、まだある、ということを書く。

誰かに何を話しているときに、言葉が花開き、思考が曼荼羅のように広がってしまうことがある。

ある話題に乗っかって話していたつもりが、自分の言葉や、脳内の風景に、次々に感情を刺激され、新しい風景が次々とやってきて、それらを描写したり考えたり新たに言及したりしているうちに、元々話していた内容がなんだったのか、もはやどうでもよくなってしまって、相手の興味があった話がなんだったのか、本当にどうでもよくなってしまって、背高草の中をずんずん進んでいくような、ひまわり畑の奥に何があるのか突進してしまうような、奥の奥の奥まで潜り込んでしまって、いつしか当初の興味標的を外れて、思考ゲームの中で前後不覚に陥って、ある瞬間に話し相手のぼうぜんとした表情に気づいて「あっ、違ったね、今そういう話じゃなかったね……」と気づかされる、などということがある。



この話をすると、10人のうち、2人くらいが、あるある、あるよね、と理解してくれる。でも、2人くらいだ。

たいていは、「集中力がないんだね」「人と会話するつもりがないんだ」「自分の中で完結してるんだね」みたいな顔をされる。

自分の言葉は、自分の脳内イメージを具現化するためだけにあって、誰のためにもならない、誰かの希望に添えない、誰も楽しくしないものなのではないか、と、激しく落ち込んだりもする。

激しく落ち込んだ記憶をひとつひとつ紐解いて、いや、ま、結局その程度の話し相手だったからだよ、いわゆる自分の中での優先順位がさほど高くない会話だったんだよ、本当に言いたいことをマスクしているうちに、そのマスクが外れて、心がひとりでに語り始めてしまったんだよ、そんな感じの、弁護に出会うこともある。

まあ、うん、まずいことだけど、しょうがないよね、と、ひとりごちる。



でも、ほんとうに、悪いことなんだろうか。

言葉が言葉を連れてくる、感情が潜在意識を呼び起こす、鏑矢が大戦につながる、そんなシーンがあるのは、ごくまっとうな、あり得る思考スタイルではないのだろうか。

とっかかりの話題なんて、ぼくらにとっては、極論すれば、どうでもよくなってしまうんだ、そういう瞬間、そういう人間関係というものが、ないのだろうか。



あんまり人前で話すような内容ではないと思っていたので、今までどこにも書いたことがない話だ。けれど、このブログを書いている今日、たまたまタイムラインで、自分の尊敬する人間が書いていた。似たようなことを、書いていた。

ああ、あるよなあ。

そう納得してしまった。



ぼくは、起承転結とか、序破急とか、きっかけから展開してなんらかの結論を導いて納得し共感してほっとする、そういう会話を、心のどこかで、軽んじているのかもしれない。

会話の根本のところに、セレンディピティのような、天から何か降りてくるoccur to me的な、交通事故的な何かを、望んでいるのではないだろうか?

それがぼくの、ぼくらの、根っこのところに存在してはいないだろうか?

2017年1月25日水曜日

病理の話(41) あるお手紙への返事

○○小学校 六年○組
○○ ○○ 様

はじめまして。札幌厚生病院 病理診断科 市原 真 と申します。
この度は、大変ご丁寧なお手紙を頂き、誠にありがとうございます。

手紙が届いたときの最初の感想は、「ぐっときた」です。大変整った字体で、過不足なく情報をお伝え頂いていることに、まず驚きました。さらに、「質問」が大変具体的であるということ。病理医という職業を知って頂く上で、とても大切なご質問ばかりでした。

おそらくは、○○学習における○○でのインタビューなどを通して、職業について調べるということをきちんと考えられたのだろうなあ、と拝察致します。質問を何度か読み返しながら、深く肯(うなず)いております。

この○○学習を通じて、○○さんが何を学んできたか、これからどう学んでいきたいかということが、きちんと伝わりました。精一杯お答えさせて頂きたく存じます。

私は、
「病理学という学問、あるいは病理診断医という仕事が、もう少し世の中に広まったらいいな、知名度が上がったらうれしいな」
と思って、インターネットなどでちまちまと活動しています(メインはツイッター、Facebookなどです)。今まで、世の中の人たちが私たちの仕事に対してどういう疑問を持つのか、どのように答えたら興味を持って頂けるのか、というのを、少し考えてきました。

最近気づいたことは、
「あまりこちらの世界に興味がなく、適当な質問しかしてこない人に、いかにかっこいい答えを与えても、結局あまり興味を持ってくれない」
ということです。一方が他方にただ語りかけても、お互いの理解が深まることはないのですね。コミュニケーションには、回答力も必要だけれど、質問する力も重要だなあ、と、感じています。

○○さんのお手紙は、「質問力」に満ちあふれていました。何よりうれしいことです。

次のページより、いただいたご質問にお答えして参ります。ほんとうは、手書きでしたためればよかったのですが、何度も何度も書き直すだろうことを考え、活字のお手紙とさせていただきました。どうぞお許し下さい。

JA北海道厚生連 札幌厚生病院 病理診断科 医長
市原 真

※ここから先は、いつか学生さんに掲載の許可を得る日が来たら、載せようと思います。
けれど、丁寧なお手紙をくださった方にだけあてて書いた手紙ですから、
あるいは、載せる事はないかもなあと思っています。

あと10000字あるのですが、病理医になってから一番じっくり考えて書いた10000字だったと思っています。

2017年1月24日火曜日

ふとんの中で恋ダンスを一瞬踊る、も同類

待ち時間を空港のロビーで過ごしてもよかった。

ただ、ちょっと気分を変えたくなった。車を駐車場に止めた後、運転席から後部座席に移動し、モバイルWi-Fiの電源を付けて、ノートパソコンを開いて、ブログを1つ更新した。

ちょっといい気分である。

今のぼく、周りからどう見えているかなあー。

多少はドヤっている。

スーツにめがねの中年が、狭い車できゅうくつそうにパソコンをバカバカ打っているだけなのだが、なんというか、忙しそうで、充実しているように、見えないかなー。

鼻が少し伸びている。

新千歳空港、朝6時、外はマイナス17度。通る人などいない。車中を覗き込む人などいない。だからこそ、メンタルに優しい。

鼻歌である。FMに合わせてヒザがリズムをとる。

きっと、車も少しゆさゆさと揺れている。



こういうことを、まれにやりたくなる。バカにしてはいけない。夜の公園でひとりブランコに乗ったことがあるやつ、明け方4時ころにひとり車を飛ばして海を見に行ったやつ、観光道路を駆け上がって山の中腹からひとり夜景を見てしまったやつ、バーでロックグラスの中に指を入れてかき回してしまったやつ、みんな同罪である。おまえらとぼくは一緒だ。

誰かが見ていたら、フフンという顔はできない。そんな、こっ恥ずかしいことしない。誰も見ていなさそうだから、見ないふりをしてくれていそうだから、やるのだ。そういう、自分の立て方というのが、あるだろう。

ないとは言わせない。

早朝、病理医が毎日、なにかのカタキを打つように更新しているブログをちゃっと読んでから出勤・通学するようなやつらが、「こっち側」にいないはずがない。

2017年1月23日月曜日

病理の話(40) パイプを通して人体をみる

人体にはいくつかの「共通するシステム」がある。

たとえば、血管。血管は、パイプだ。上下水道に例えるとよい。体の隅々に張り巡らされ、行きは酸素を運び、帰りは二酸化炭素を運ぶ。ただ、人間が苦労して張り巡らせた上下水道よりも、血管はよっぽど優秀で、様々な老廃物をも運ぶし、ホルモンのような必需品も運ぶ。上下水道であると同時に、ガス管にもなっているし、宅配便の役割も果たすし、ゴミ収集車の役目も持っている。

こんなにすごいパイプがあるにも関わらず、人間の中にはさらにパイプがやまほどある。

腎臓から膀胱へ尿を運ぶ、尿管。乳汁を運ぶ、乳管。胆汁を運ぶ、胆管。膵液を運ぶ、膵管。唾液を運ぶ、唾液腺導管。肺と外界とをつなぐ、気管・気管支。脂質やたんぱく質のような、血管につまりそうなものを一部代行輸送する、リンパ管。口から肛門をつないでいる消化管だって、パイプだ。

どれもこれも、管だ。

管は、中身をつねに流していることが役目だから、中身が詰まった場合にはすべて病気になってしまう。いたってシンプルだ。

心臓の血管が詰まれば、心筋梗塞。脳の血管が詰まれば、脳梗塞。尿管が詰まるのは尿管結石、胆管なら胆石、膵管なら膵石。消化管が詰まると「イレウス(腸閉塞)」という。

詰まったら解除しないと、人間は基本的に、かなりやばいことになる。詰まりを解除するには、どうしたらよい?

手術か? 直接、手で取りに行くか? あるいは、超音波のようなものを当てて、石をくだいてしまうか? 原因が一部分に留まっているのであれば、その場所をまるごと取り外して、パイプを少し短くつなぎなおすか?



人間にはほかにも、システムがある。

胆汁、膵液、胃液、腸液、唾液、汗……。これらはすべて、「パイプの中に流し込んではたらく液体」である。この液体を作る、専門の工場がある。

胆汁は肝臓にある肝細胞で作る。膵液は膵臓の「膵腺房細胞(すいせんぼうさいぼう)」で作る。胃液は胃にある胃底腺(いていせん)の主細胞や壁細胞などが作る。腸液は腸上皮、唾液は唾液腺の腺房細胞、汗は汗腺。

体の中には、パイプの横にまとわりつくように、液体を作るシステムがある。外分泌(がいぶんぴつ)システムという。パイプの中とは書いたが、これらは最終的には体の外とつながっているので、「外分泌」なのだ。

一方、パイプの中にも、体の外とつながっていないものがある。それは、一番最初に書いた、血管だ。血管が体の外とつながっていたら大変だ。それでは出血してしまうではないか。

血管の中に、何かを流し込むシステムもあるのではないか? そう考える。

もちろん、ある。それが「内分泌(ないぶんぴつ)」というものだ。

甲状腺。副腎。脳下垂体。これらはみな、ホルモンを作り出す。血管の中に入って全身をめぐり、いたるところで仕事をする。細胞を元気づけ、アクセルをかけ、はっぱをかけるものが多いが、細胞をだまらせ、おとなしくさせ、力を蓄えさせるような命令を担当するホルモンもある。



パイプと、その中を通すもの。五臓六腑の大半は、これらのどちらかに関与している。

外分泌系が壊れたらどうする? 内分泌系がいかれたら、どうなる? これらもすべて、病気、そして治療にかかわりがある。



これらと複雑に絡み合いながら、かつ、これらとはある程度独立した、「統制」をとる必要がある。それを担うのは、脳と神経だ。脳が命令を出し、神経が電撃的に命令を伝える。そこのパイプ、開け。そこの工場、がんばれ。上下水道や宅配サービス、ゴミ収集車たちに複雑な命令を出すために、全身に張り巡らされた「インターネット」が神経であり、サーバーコンピュータとして脳が存在している。

そして、すべてを支える骨格、絞ったりゆるめたり移動させたりする筋肉、保温と緩衝と栄養備蓄を一手に担う脂肪。



これらの美しいシステムはいつも、外界の刺激に壊されないように、内部の反乱で滅びないように、守られているんだ、多様な免疫(めんえき)によって。


***


顕微鏡で、細胞一個にピントを合わせて、核がどうだ、細胞質がどうしたと言うとは、いったいどういうことか。

その細胞が、何県何市何条何丁目、何工場の何担当の誰さんですか、ということを知り、お前、ほんとはリーゼントじゃなくて坊主頭じゃないとおかしいはずだろ、君は包丁を持っていなければいけないのになぜマシンガンを持っているのか、と、気づいて指摘すること。

それがぼくらの仕事、ということも、できる。

2017年1月20日金曜日

拝啓、緊張様

「緊張」によって、自分はいったい何を手に入れたことがあり、何を失ったことがあるのだろう、と考えている。

人生を決めるような試験があり、とても大きなスポーツの試合があり、自分に多くの責任がのしかかる仕事があった。すべての機会にこまめに緊張してきた。

すべての失敗が準備の不足やシミュレーションの甘さ、さらには自分の実力の低さに基づくものだったろうか。

ぼくは、そうだったのだと思う。試され、勝負の世界に翻弄され、重責に押しつぶされたのは、すべて自分に何かが足りなかったからだ。それは運だったかもしれない、努力だったかもしれない、到達点に届かなかったからかもしれない、とにかく、何か届かなかったのだ。

そして、これらのすべての場面で、等しく緊張してきたから、ぼくは失敗の原因を、緊張にあると考えてきた。

緊張は、いつも失敗のそばにあった。そして、成功のそばにも潜んでいた。



緊張しているかしていないかは、結果と相関していなかった。だって、同じくらい緊張していても、試験に合格した時も、だめだったときもあったじゃないか。のどが震え、指先が冷たくなったあとで、栄光も挫折も訪れた。

それに気づいたのは、たぶん、30歳になる前くらいだったと思う。



ああ、緊張してるとかしてないとかって、関係ないんだな。



気づいてから、ぼくは、自分の緊張をほぐすことに労力を使うのをやめた。



「緊張さん」は大変だ。失敗の原因を押し付けられる。あまねく世界で、本来の実力を発揮できなかったのは緊張のせいだとか、一流のプロ選手はメンタルが強いとか、精神状態をコントロールできる人間が勝つとか、そういう話題が無数にはびこっていて、いつも最後の最後で、本人の失敗の責任を一手に引き受けて、石を投げられている。

ああ、緊張さん、ぼくはあんたにずいぶんと失礼なことを言ってきた。今さら謝っても遅いかもしれないけど……。これからは、その一番いい席で、ぼくのことをずっと見守っていてくれたら、それでいいよ。

それまで、にこりともしないが、さりとて怒ることもしなかった緊張さんは、この日を境に、姿を見せなくなった。

どこかに去ってしまった。

代わりに、今、ぼくの心の中には、緊張ちゃんが住んでいる。お茶目な顔をして笑っている。ときおり、逃げ口上くんや、言い訳さん、なぐさめ女将、忘却マスターたちと、お茶を飲んだり将棋を打ったりしている。

ぼくは、講演や学会発表、カンファレンスなどのときに、緊張ちゃんに見守ってもらうようになった。緊張ちゃんは、何も知らない顔で、ただ笑っているので、ぼくはもう、何も彼女のせいにできないでいる。



ほんとうは、緊張さんにも、見ていてほしかった。ぼくの今の姿を見てもらいたかったけれど、緊張さんは、若い子のことが好きらしく、ぼくのところにはもう戻ってこないのだと思う。

よろしく伝えておいてほしい。

2017年1月19日木曜日

病理の話(39) 複雑系のストーリー

体の中にはさまざまな構造物がある。

すべての構造物は、「細胞」、あるいは「細胞によって生み出されるもの」からできている。

細胞は、酸素やたんぱく質、脂肪、糖質などからできているが、これらは、体外から補給しなければならない。

それも、ひとたび補給したらそれで終わりというわけではない。人間が生きている限り、ある程度の頻度でご飯を食べなければいけないのとまったく同じで、あらゆる細胞もまた、外界から栄養を補給しなければいけない。

体の中にあるものはすべて、ご飯を食べ続けなければ維持できない。手間をかけ続けなければいつか壊れてしまう。

ということは、である。

体の中にあるものにはすべて「意味」がある、ということになる。意味のないものに手間をかけて、一生飯を食わせ続けるようなことは、無駄だからだ。

だから、一般に「もうちょう」と呼ばれる虫垂(ちゅうすい)も、腸をつなぎとめているだけの腸間膜(ちょうかんまく)も、ひじの曲がるところにある余った肉も、とにかく全部、「意味がある」。


以上が科学的な証明かどうか、と言われると、ちょっと迷う。ものがそこにあるのは意味があるからだ、というのは、なんというか、宗教にも、自己啓発本にも似ているようで、文学的ですらある。

けれど、この「ストーリー性を探す」という作業は、複雑すぎる人体を理解するとき、その人体に生じたなんらかの不都合(つまりは、病気)を理解するとき、治療法を考えるときなどに、ある程度役に立つ。


生命の理、すなわち生理学。

病気の理、すなわち病理学。

薬の理、すなわち薬理学。

これらの根幹には、理念、ストーリーが転がっている。


ぼくが人体を考えるとき、特に頻繁に使うストーリーがある。その一つを紹介する。


***


体の中には様々な構造物が存在し、飯を食い、息をしている。自分が自分であり続けるための機能が備わっている。常に外界から無数の因子を取り込み、常に新陳代謝を行い、新しく、かつ今までと同じようにあり続ける、という姿勢。この姿勢を「自己恒常性」(ホメオスタシス)と呼び、ホメオスタシスを全身で実現し続けるものを、我々は俗に「生命」と呼ぶ。

ホメオスタシスは、

・外界にある無数の物質がやたらめったらとやってきたときに、
・その中から自分の役に立つものばかりを大量に集めてとりこみ、
・自分の敵はきちんとはじきかえし、
・役に立つものを使って自分を作り上げた後、ゴミを捨てる

というプロセスにより、実現する。

・お店に並んでいるいろんな商品を見て、
・自分が今食べたいもの、今日使いたいものをカゴに入れて買い、
・火の元に気を付け、きちんと防犯意識を持ち、くさったものは食べないようにし、
・食べたり飲んだり遊んだりして出たゴミはきちんと捨てる

これもまた、立派なホメオスタシスの姿である。

生命活動をほどよく維持するためには、「何かひとつの物質」に依存し続けていてはいけない。一種類のものに強烈に依存してしまうと、仮にその物質が枯渇したときに、一発で死んでしまう。

生命活動に悪影響を与えるような敵は、物理刺激、化学物質、ほかの生物(細菌とかウイルスなども含む)など枚挙にいとまがない。生きていくためには、たくさんの防御機構を幾重にも張り巡らせる。一種類の敵が少量やってきた程度なら、多少のダメージは負っても、すぐに回復してしまうようなシステムがあればなおいい。

これらを理解することで、「ビタミン剤1個で健康に!」とか、「牛乳を飲めば寿命が延びる!」みたいな論調が、まゆつばなんだろうなあ、ということがわかってくる。



西洋医学は、「何か一種類のものを体にぶちこむことで、病気を駆逐しようとたくらむ」という性格を、多かれ少なかれ持っている。生体にとって、何か一種類のものが入ってきただけで、すべてがうまくいくようになるシーンは、驚くほどに少ない。だからこそ、「これは役に立つぞ」という推測は慎重に、学術的に、説得力ある状態で行っていかなければいけない。

インターネットのおかげで、なぜこの治療が体に効くのか、という「学術的な」説明を手に入れることは比較的容易となった。そこにさらに、「説得力」を添えようと思ったとき、ストーリーが重要さを帯びてくるのではないかと思う。

2017年1月18日水曜日

相互フォロースタジアム

今日も楽しく事務作業、デスクにずっと座っている。PC2台と顕微鏡と仕事をしており、1台にはずっとツイッターが稼働している。こういう仕事は世の中にどれだけあるのだろうか。ラッキーなのかどうかはわからない。

昼間のツイッターは、「デスクにずっといる人たち」が多いようにも思う。もちろん移動中にスマホで飛び込んでくる人も、家のソファからiPadでだらだら接続しているやつもいるだろう。ただ、まあ、おそらく、自分の伴侶よりもPCと一緒にいる時間の方が長い人たちが多い印象はある。だからかな、思考回路も、自然と一部が揃ってくる。

このことを意識し始めたのは本当につい最近だ。夜11時ころのタイムラインに生きる人たちのツイートが、どうにもうまくハマらないなあと、なんでだろうなあと、考えていてハッとしたのだった。日本人であればわかりあえるとか、医療者であれば通じるものがあるなんて紋切り型思考にはすっかり飽きてしまっていたけれど、「昼型ツイッタラーであればわかりあえる」なんてこともあるかもしれないなあと、少し納得したりしてしまった。さてと、よくある話、自分の気づきに一番最初につっこむのは自分自身だ。まあ待て、そうでもないかもしれないぞ、と。

じっくりツイッターのタイムラインを見てみると、突拍子もないツイートをわさわさ見つけることができた。トレンドを見ても、全くわからない言葉ばかりが並んでいる。まあそうだ、そりゃそうだ、ここには仲間なんていない。いるのは、およそ180度の誤差含みで同じ方を向いているとされる人間に過ぎない。サッカー場に例えれば、ホーム側のスタンドに陣取って一緒にピョンピョン跳ねながらサッカーを見ている人間の中には、暴力的なやつもいれば、子供と一緒に観戦しに来た父親もいるし、実況のまねごとをしている事情通もいれば、アウェイ側と間違ってチケットを取ってしまった人だっている。そういうのを十把一絡げに「昼型ツイッタラー」とまとめて、まあ仲良くやろうぜと、半分以上あきらめながら、それでもタイムラインに片足突っ込んで仕事の合間にちらちら眺めている自分は、まあ、無知な幸福論者なのかもしれないなあと思ったりもした。

ところで、仮にだ、どういう人たちがタイムラインに溢れていたら、ぼくはそれをより幸せだと思うのだろうかと、少し思考実験をしていた。「なけなしの小遣いをはたいて好きなアーティストのCDを買い、くり返し聞きながらちょろちょろネットでアーティストのブログをチェックしたり、ぜんぜん関係ないバンドの対談を見たりしてる連中」? 「今年見ようと思っている少し古い映画を見る前につぶやいて、すでに見た人があれはいいよとお気に入りを押してくれることがうれしい人々」? 「お笑い芸人のポッドキャストを聴いて優しい感想だけを上げ続けているブログの主たち」? 「偶然仕事で訪れた土地の博物館をのぞいたあとで現地の市場で少し珍しい食材を買って帰り、現地のレシピをぐぐりながら自分へのおみやげと称して一汁一菜にもう一品おかずを添えるのが趣味のやもめ」? これらは全員、スタジアムに座っていなさそうだなあと思うんだけど、そういうやつらを集めてこようと思ったら、「昼間にタイムラインにいそうな人々」を地引き網みたいに大量にさらって、ちょっとずつリストに入れて眺めるしかないんだよなあ、長年地道に相互フォローを続けてきたからできなくはないよなあ、と夢を見たり、そのまま眠ったりしている(14:15)。

2017年1月17日火曜日

病理の話(38) カーテン越しクイズ

ものすごくハイレベルなことを書こうと思う。このようにハードルを上げると、なんかかっこいいかなあと思ったんです。以上です。ではなんとなく普通レベルのことを書きます。



「病理診断という仕事は病理医に任せておけばいいので、臨床医をはじめとする医療者が多くを知る必要はない。」

これは、一つの真理である。

ところが、実は、多くの医療者が、「病理を勉強したい」と言う。




知人の外科医によれば、外科で働いている限り、どこかで必ず、病理を勉強したいという気持ちになるそうだ。まあこれはかなり意識の高い外科医の言う事なので、5割くらい引いて考えたほうがいいかもしれないけれど、多くの外科系医師は、キャリアの中で1度や2度は、病理のことを勉強したくなるらしい。

ほか、主に画像診断を行う科、腫瘍を扱う科にいる医療者なども、病理のことをもう少し勉強してぇなあと思うことがある、と聞く。

なぜだろう。

なぜ、みんな、病理のことを勉強したいと思うのだろうか。

ぼくが思うに、これは、おそらく、「自分が予想していた病理診断の結果と、実際の病理診断が、ずれていたケース」がきっかけなのではないかと思う。




すごくくだらない、たとえ話をする。

薄いレースのカーテンの向こうに、人影が見える。

だれだろう。

どうも、ちょんまげをしているように見える。腰には刀……? そばに、なんらかの動物を連れているようにも思う。

ああ、桃太郎かな。

桃太郎じゃないかな。

あなたは、そう考える。

そして、カーテンを開けてもらう。カーテンを開ける人は、「びょうりい」と名乗っている。

さて、何が出てくるだろうか。



カーテンを開けるとそこに、

①桃太郎がいた。

桃太郎だと予想して、桃太郎。大正解である。

……これが、「診断がばっちり合っていたケース」である。




カーテンを開けるとそこに、

②浦島太郎がいた。

「ああ、ちょんまげ! 動物はあれか、犬じゃなくてカメか。影だから、わかんなかったなあ。それにしてももう少し注意深く見ていたら、桃太郎と浦島太郎の違いはともかくとして、カメと犬くらいは見極められたかもしれないなあ。よし、今度はもっと注意深く見よう。」

……これが、「診断が少しずれていたけど、まあ、病理診断を見てから考えると、納得がいくケース」である。



カーテンを開けるとそこに、

③鬼がいた。

「こ、これはやばい……ちょんまげとツノの区別がつかなかったのもやばいけど、うーん、正義の味方と悪者を間違えてしまったのはまずい。意味が正反対だ。まいったな。」

……これが、「診断が大間違いだったけど、まあ、カーテンを開ける(病理診断をする)ことで、間違いは防げるなあと、反省するケース」である。



カーテンを開けるとそこには、

④ムーミンがいた。

「えっなんで……シルエットからまるで想像できないんだけど……。

えっ……どうして? ぜんぜん、えっどういうこと? ちょんまげは? ないの? あっちょっとまだカーテン閉めないで! 待って待って! さっき横に何か犬みたいなのいなかった? えっムーミンてちょっとどういうこと」

……これが、「誤診の原因がすぐには考え付かないほどに、当初の診断と病理の結果とがずれていて、しかもなぜその間違いが生じたのかよくわからないケース」である。



診断という仕事をしていると、「自分の診断」が少しずつずれているケースに、まれならず遭遇する。その「ずれ」の多くは、患者さんや診療そのものにはあまり影響がなかったり、ずれていてもすぐに補正できたりする。

病理診断は、この「ずれ」をきっちりと正してくれる強力なツールである。上の例えで言うと、病理診断は

「カーテンの向こう側を見せてくれる」。



「どうせカーテンを開ければ診断が待ってるんだからさ、ま、カーテン開けるのは病理医に任すわ。俺ら、予想だけするから。」

と考える医者もいなくはないのだが、たいていの医療者は、

「桃太郎だとばっかりおもってたのにムーミンだったよ……なんでだよ……どういうことだよ……」

という疑問を持つ。



だから、たぶん、「病理医がどういう仕事をしているのか、どうやってカーテンを開けているのか」を知りたいと思うのだろう。



さて、カーテンの開け方を聞かれた人間は、2通りの返事ができる。

「カーテンはこうやって開けるんですよ~」

と、カーテンの開け方だけを教えるやり方。

もうひとつは、

「カーテン越しだとこう見えたんですか、なるほど、それはきっと、この影がこう映ったからですね。カーテンの横から見てると、またちょっと見え方が違うんで、その錯覚の原因もわかるんですよ。」

と、カーテン越しクイズに自分も参加するやり方だ。



どちらが、お互いにとってメリットがあるかというのは、ケースバイケースではある。

しかし、たぶん、こっちの方がいいんだろうな、という予想もある。



さあどっちの方がいいと思いますか。普通レベルの質問です。

2017年1月16日月曜日

ヘミングパリピ

人生を楽しむためには、「すでに何かをして楽しんでいる人のダイジェスト」などを見て、考えて、学んで、パクるなどして、取り入れて、ブレンドして、捨てて、また足して、とやっていくことが肝要かと思われる。

だから、楽しそうな人が「楽しいよ、と薦めるもの」を探っている。まあ、たいていは、本だ。ネットを見ながら、いつでも探しているよ、おもしろい本、くだらない本、こんなところで紹介されるはずのない本(もちろん今の一文は山崎まさよし風に読んでください)。

さて、楽しそうな人が楽しいよと薦めた本は、「原酒」に当たるのだと思う。原酒はアルコール度数が濃すぎたり、通の味覚がないと良さがわからなかったり、個性という名のトゲが潜んでいたり、口当たりが良いものとは限らず、なんというか、一見さんを遠ざけるようなあくの強さを秘めていたりする。

「楽しいよ」と薦めてくれた人は、そういう原酒でもじゃんじゃん飲んでしまうような、酒に強い人かもしれない。ただ、必ずしもそうとも言い切れないなあ、とも思っている。彼らは、うまいのだ。癖の強い酒でも、おいしく飲むだけのスキルを持っている。

人に本を薦めるのが上手なひとは、どうも、自分の中で、複数の本を「ブレンド」しているふしがある。取っつきにくそうな専門書を読む際、別の本を読んだときの感想や、他の話題で感じたことなどを、うまいこと混ぜ込みながら、著者が言いたかった事をうまく引き出しつつ、味わいをとっつきやすくして、しかもさらに深みを加えてみたりしている。

ウイスキーの原酒に加水するような作業に似ている。度数を下げて飲みやすくするには留まらず、程良く薄めることでかえって香りが花開くような効果も起こる。

キーモルトにグレーンウイスキーなどを複数加えて、万人がおいしく飲めるようなブレンドウイスキーを作り出す、マスターブレンダーのような人もいるし、もはやウイスキーとは何の関係もない、ベルモットやビターズのような別種の酒を混ぜることで、本来想定されていた顧客よりもより多くの人が楽しめるカクテルに仕立ててしまうバーテンダーもいる。

彼らの脳内は薄暗いバーになっていて、読んだ本は名作も駄作もすべて、バックカウンターにボトルとして並んでいるのではないか、と想像する。


***


戦場にはカクテルグラスもシェイカーもないと言いながら、口の中でジンとベルモットを混ぜてマティーニを作った、という逸話は、ヘミングウェイだったろうか。

バーテンダーの前に座って上手なカクテルをもらうのも楽しいが、自分の口の中でえいやっと酒を混ぜる野趣あふれる飲み方もある。強いアルコールがズドンと腑に落ちるような飲み方ではあるが、趣向を凝らしている分、笑顔も増える。

そして、悪酔いをすることになる。

2017年1月13日金曜日

病理の話(37) たかがライブラされどライブラ

たとえば、「手術で採ってきた胃にある、がん」を詳しく調べようと思ったら、どのように調べればよいか。

胃の中に、3×2 cmくらいの大きさの、ひらべったい、お皿のようなカタチの、周りが少し盛り上がっていて、中が少しへこんでいるような、がんがあるとする。

このがんを調べるというのは、どういうことか。

・どんな細胞からできあがっていて、
・なぜここに出現したのか。
・どういう性質があって、
・周りをどのように壊しているのか。

いろいろと知りたい事はあるけれど、一番知りたいのは、

「このがんは、手術で採る事で、治ったと言えるのか」

ということだ。

もう少し詳しく書くならば、

「がんは手術で採っても再発することがある、というが、『この胃がん』に関しては、具体的にどうなのか。

今回のこの人の、このお皿のようなカタチの胃がんは、再発するのか。しないのか。

するとしたら、どれくらいの確率で、再発するのか。

再発したら、どういう治療が有効なのか。」

こういうことを、知りたい。

医療者は、このような質問に答えるためのヒントを求めて、病理報告書を読むのである。



間違ってはいけない。

胃がんの細胞を、顕微鏡でみたときに、核がどういうカタチをしているとか、細胞質がどういう色合いであるとか、核分裂がどれくらいあるかとか、免疫染色で何が染まるかとか、そういったことをいくら書いたところで、

「で、それが何なの?」

と言われてしまっては、じっくり調べた意味がない。病理医が、それぞれ思い思いに、自分の見えたものを好き勝手に記載するようでは、困るのである。

だから、病理報告書には、ある程度決まった項目を、ある程度決まった書式で、書く必要がある。

その項目というのは、ドラクエにたとえるならば、「こうげき」とか「ぼうぎょ」「すばやさ」「かしこさ」みたいに、あたかもがん細胞の「ステータス」のように見える。

・深達度 pT3(SS)
・間質量 int
・浸潤様式 INFb
・リンパ管侵襲 ly0
・静脈侵襲 v0

病理報告書に書いてあるこれらの「ステータス」は、すべて、

「今後、この患者さんはどうなるだろうと予測できるの?」

という質問に答えるための値だ。

臨床医をはじめとする多くの医療者は、このステータスを読んでがんを読み解こうとする。ステータスがそれぞれどのような意味を持つのかは、過去に、多くの医療者たちが積み立てた研究結果によって示されたものだ。病理医が、胸先三寸で、

「なんだかこのがん、悪そうなんですよ。すぐ再発してくるかもしれないです」

みたいに、直感だけで語るのとはワケが違う。




……以上が、患者さんから「病理医とは何をする仕事なの?」という質問を受けたときに答えればいい内容だろう、と、思っている。

病理医は、病気を分類して、ステータスを表示させる仕事をする。

FFにたとえるなら、「ライブラ」みたいなものだ。相手のステータスを表示させる、だけの仕事。

いずれ、AIに取って代わられるのではないか、などと言われる。



ただ、おもしろいことに、この「たかがライブラ」は、人間の欲求のひとつを激しく満たす。

その欲求とは、「自分が関わったモノは、すべて知りたい」という欲である。

「なぜこのようなカタチをしているのか」

「どうしてこのような未来が予想できるのか」

「いかにしてここにたどり着いたのか」

すべてが、ステータスの奥に、静かに待っている。

探求欲。知的好奇心とも呼ぶ。



ぼくらが働いていて、もっとも患者の役に立っているだろうなあと実感するのは、ステータスを正確に高速表示できた瞬間である。

そして、医療者の役に立っているだろうなあと実感するのは、ステータスそのものよりも、ステータスの向こうに潜む、キャラクタの「性格」とか、「背景」とか、いわゆるストーリーと言われるものまでを表示するときだ。

マリオRPGでたとえるなら、「なにかんがえてるの」であろうか。MOTHER2でたとえるならば、「テレパシー」? ドラクエでたとえるならば、うーん、「モンスター物語」。

ステータスを厳密に与えるのはとても大切な仕事だけれど、できればストーリーを編んで語ることまで、ぼくらはやっていいのだろうと思っている。たかがライブラ、されどライブラ。

もっとも、10年や20年の修行で、ライブラが使えるようになるのかどうかは、また別の話なのだが……。

2017年1月12日木曜日

開くも明けもはかなくも こうかいの果てまで

このブログは掲載日の1週間くらい前に原案を書き終えてある。約7日間寝かせたあとで、早朝にさっと読み返して、ブログの「公開」ボタンを押している。

このタイムラグのせいか、ブログを書いたときと公開するタイミングとで、気持ちが少し変わってしまっていることがある。

そういうことがあるだろう、ということはわかっていた。だから、最初から、

「今考えていることは、ずっとこの先も考えていることだろうか」

「今書いたことは来週も普遍的に読めるものだろうか」

という疑問をアタマに浮かべながら書くことにしたけれど、ま、もちろん、考えたところで、来週の自分の気持ちを予言するなどという、器用な真似はできない。

たいてい、書いた時よりも更新するときのほうが冷静になっている。ああ、ここまで熱く語るほどでも無かったなあ、と思ったときには、多少訂正してやろうかと身構える。けれど、たいてい、結局そのまま、送信してしまう。

1週間のブランクでアタマを整理したのなら、自分の文章を冷静に読めるようになったのなら、多少なりとも校正すればいいのかもしれないが、あまり直しを入れていない。

誤字すら放置していることもある(これはうっかりだ)。

直しを入れないのがいいのか悪いのかはわからないが、代わりに、「わずか1週間前の自分に違和感を持つ」という体験を、少し大切にしてみようか、などと思った。


***


先日、「趣味がないということ」を扱ったブログを書いた。公開するまでのタイムラグの間に、ツイッターのタイムラインにちょうど、趣味の話が踊った。

うーむ。

まさに、30代とか40代の男性は、新しい事を始めるハードルが高い。ある程度金銭を使うことについては、若い頃ほど抵抗はないのだけれど、あまりに高度なことを修得するのは今更という気がする。だから、簡単に始められるわりには奥が深い、みたいな趣味を求めている……。

そんな意味のツイートを見ながら、そうだ、そうだと、納得をした。

そして、思い出した。この話、ブログに書いたばかりだな、もうすぐ公開じゃないか。

公開するのは、ちょうど明日だ。どうしよう。年明けに見たツイートを使って、もう少し「うまく」書き直すか……。

「うまく」書けば読者が読みやすいし、読んでからの充実感も大きいんだから、何かを書くんならうまく書くにこしたことはないけどなあ。




うまく書く、というのはどういうことかなあ。

勢いにまかせてふわふわと組み立てたブログの文章を、外からの知恵を組み入れることで、「より完成品に近づける」みたいなことなのかなあ。

そしたら、1週間前に、何かに突き動かされて書いていたときのぼくの考えは、不完全だった、ということなのかなあ。

あのときのぼくは、何があって、どういうきっかけで、あんな文章を書こうと思ったんだったかなあ……。



そんなことを考えながら、結局、何も手を加えずに、公開ボタンを押した。

今回、この記事を公開するにあたり、2箇所ほど、「後悔」という誤字を訂正したのだが、果たしてこの訂正も、正しい直しだったのかどうか、少し疑問に思い始めている。

2017年1月11日水曜日

病理の話(36) 自分への診断

年末、いよいよ病院も休みになるというタイミングで、右の顎、奥歯の奥、やや顔の表面よりの部分が痛み始めた。じっとしていると大した痛みはないのだが、特に、ものを噛んだ時に痛い。

なんだろう、咬筋(こうきん)でも痛めたのかなあと思った。あるいは親知らずだろうか。

せっかくの年末年始の食い物も、いまいち楽しめないときがあった(でも結局は食べたが)。

こういう話をすると、知人には、

「いいねえそういうときお医者さんは、自分で診断できるもんな」

などとうらやましがられる。

いや、申し訳ないが、何がどうしてどのように痛いのか、その理屈とかメカニズムとか、もっといえば、診断名とかはどうでもいいので、とにかくこの痛みをなんとかしてくれ、という気持ちにしかならない。

医療とは診断ではないのだ。治療なのだな。

そう思った。

「痛みをとれるのかとれないのか、とれないとしたらどういうように『逃げれば』、あるいは『やりすごせば』いいのか、それを教えてくれ。診断名はどうでもいい。今後の見通しをくれ」

そう思ってしまった。



実は、ま、自分でやってみたんですよ。OPQRSTメソッドに沿って、診断を。医療者ってたいていこういうことするんじゃねぇかな。自分が調子悪いときには。

O(onset): 痛みは急に訪れたように思われる。

P(paliattive, provocative): じっとしていると大丈夫。ものを噛み始めると痛い。食事の最後のほうはなんだかそこまで気にならない。ものを噛まずに顎だけうごかしても痛みはあるがそれほどたいしたことはない。

Q(quality): ずきん、ずきん、虫歯になった歯茎をおしたときのような、神経に触れているかのような痛み? でも筋肉痛に近い痛みともいえる。なんとも表現しがたい

R(region/radiation): 痛みと関係あるのかないのか、ものを噛む時には近くにある臼歯のかみ合わせがすこしあっていないようなイメージがある

S(symptom): 実は反対側の歯茎からも血が出ている気がするがよくわからない

T(time course): 1週間あまり変化していないが最初の方が痛かった気もする

だからなんなの。アセスメントしたから、それがなんなの。

親知らずが生えてきたか、臼歯の治療後の場所に嚢胞でもできたか、あるいは咬筋でも痛めたか、顔面神経あたりに何か触れてるか、そういうことでしょ。それはわかったよ。

でも、結局、いずれ歯医者か口腔外科に行くよ。

治療できないんだもん、自分で。

痛み止めでがまんしてていい類のものかどうか、もう少し様子を見てからにするけど……。




日ごろ、さまざまな勉強をし、診療現場のいろいろな人々と会い、それこそ、多くの仕事風景を見ている。

医療を支える三本柱とは、
 ・診断
 ・治療
 ・維持
であり、このどれもが医療には欠かせない。すべてにおいてプロフェッショナルが必要だ。

そして、患者からの大きな期待と感謝を一身に受けるのは、あれだな、治療だな。

治療が8割だ。で、残りは、維持。

診断には、感謝できねぇわ、普通の患者であれば。




「あなたは○○癌という、やや珍しい癌です」

って言われて、「すごい、そんな難しい診断を! ありがとうございます!」なんて握手してくれる患者は、ま、いないわ。



そうだよなー。

だったら、「診断」に特化した部門ってのは、内輪で感謝しあわないと、割に合わないよなあー。

だって、医療者って、多かれ少なかれ、

「自分の仕事の安定と、収入と、世間的な価値の高さ、そして感謝」

によって働いてるもん。

でもね、「診断部門」って、これ、感謝できねぇわ……。されねぇわ。



そんなことを思いながら、こういうこと言うと、「わかってる」みたいな人がよってきて、

「いえ、私は、診断に感謝してますよ。だって、正しい診断がないと、正しい治療ができないんですから」

みたいなことを言って、瀬戸内寂聴さんみたいな顔をして去っていくんだけど、ま、ありがたい話ですけど、その気遣い、結局、治療ありきですよね、とか、思ってしまう。



つまりは、診断って、「感謝されること」っていうモチベーションを最上位に掲げている限りは、満足できない仕事なのかもしれないなあ。

じゃあ、ぼくは、普段、何をモチベーションにして、働いているんだっけかなあ。



そんなことを、痛い顎をさすりながら考えていた。

2017年1月10日火曜日

過ぎたるはall of you, but that'll get going to scene

実家に行ったら暖房が過剰だった。

セントラルヒーティング方式のパネルがきちんと稼働しているのに、追加で灯油ストーブが26度設定でがんがんと焚かれており、上にはやかんが2つ乗ってじわじわとぬるま湯を温めている。

久々に、真冬の室内で半袖で過ごす、という生活を過ごした。


よく、「北海道民は、冬こそガンガンに暖房を付けて、半袖短パンでアイスを食うんだよね!」などと言われることがある。我々北海道民はサービス精神旺盛なので、このような会話の際には当然、

「そうそう。ルームソックスがいちばん売れないのは北海道だから。」

とか、

「1年でいちばんアイスが売れるのは真冬だから。」

とか、裏の取れていない情報で話を盛り上げる。

しかし、実際、光熱費の中でもっとも節約が効くのは暖房費なのだ。高齢者が住んでいるならともかく、30代の男性が生活するのに、室温を高く保つ必要はない。十分に厚着すれば、外がマイナス10度だろうがなんとかなってしまうものだ。もっといえば、家には寝るためだけに帰ってくるような生活をしているなら、ふとんの中に入ってしまえば部屋が氷点下であっても大して問題はない。

むしろ、暖房を利かせすぎると部屋の乾燥のほうが気にかかる。それほど部屋をあったかくせず、どてら(ググれ)を着込んで零下の部屋に暮らす若い道民も多いのではないかと思う。



それはそれとして、実家に行ったら暖房が過剰だった。のどが渇くので頻繁にみかんを食べる。長い会話をするからさらにのどが渇くのでみかんを食べる。仏壇に自分の名前の載った本を備えたのでみかんを食べる。

みかんに飽きる前に正月が終わった。そういえば、普段、自分が過ごすうえで、フルーツをあえて買うようなことはなくなったなあと思い出す。

みかんを食べる日などない。

暖房を高く設定する日もない。

湯船に入ることもない。

何もかもが過剰だったんだな、実家というものは、そう思いながら、薄目に味付けされた夕食を過剰なくらい時間をかけてじっくりと食い、この過剰さから逃れて自分の世界に飛び込んだ今、果たして、自分は洗練された生活というものをしているだろうかと、研ぎ澄まされた暮らしというものをできているのだろうかと、考えてみたりもしたところ、「考えすぎでは?」と言われて、笑ったりもした。

2017年1月6日金曜日

病理の話(35) 社交辞令的な戦友

医局忘年会で、いつも世話になっている他科の医者たちに挨拶をした。

消化管専門医たち。

胆膵専門医たち。

肝臓グループ。

小児科。

外科連中。

泌尿器科、IBDセンター、婦人科、健診センター、耳鼻科。

呼吸器科。整形外科。放射線科。眼科。

院長、副院長、総務のひとたち。


1年間顔を合わせていない人もいるが、たいていは、カンファレンスや電話などで、会ったり相談したりを繰り返している。

ひとつの病院に10年勤め続けた病理医には、戦友が増える。



そんなの、どんな仕事でも同じだろう、と思われがちだが、実は病理医というのは「常勤」の割合が少ない。

もちろん、ひとつの病院に勤め続けるタイプの病理医もいるが、大学に紐付けされていて非常勤(バイト)というカタチで週に何度か来るだけの病理医もいれば、病理診断センターに登録することで複数の病院の業務をちょっとずつ、まるでビュッフェを巡回するかのようにまんべんなく診断をしている病理医もいて、いろいろなパターンがある。

どんなワークスタイルにもそれぞれにメリットがあるので、常勤が偉いとか大学がすごいみたいな紋切り型の評価はできないが、実感として、常勤の病理医である場合には、忘年会で、

「ほめあげられる」。



「いやーいつもお世話になっております、ほんと先生がいないと我々なにもできませんからねぇー。」

「先生いつもありがとうございます。お世話になっております。ぜひまたご指導くださいー。」

「常勤でいてくださるとどれだけラクかー。ほんと助かってますぅー。またよろしくお願いしますぅー。」



これは、ま、人であれば、普通は、気持ちいいだろうとは、思う。

だから、忘年会であいさつに回るのは、苦ではなかった。



ところが、最近、どうも反応が変わってきた。

忘年会で顔を合わせると、こんな風に言われるようになった。



「あっ先生そうだ! ごめんねこんなタイミングで、こないだのあの腫瘍か腫瘍じゃないかわかんなかった人の生検、あれ、どうなった? まだ? ん? プレパラートできるの明日? そうかーごめん採ったの今朝だわ、あれすごい気になるんだよよろしくね」

「おっお疲れ様です。あっ聞こうと思って忘れてたことあった、先生の顔見たら思い出した! あのね、先生がこないだ書いてたあの特殊型のアレ、文献つけてくれてたけど、あれってPDFのやつある? 紹介先にメールで送りたいんだけどどう? ない? 古いから? そうかーじゃスキャンするわありがと……スキャンしてくれる? ほんと? ごめんねありがとう」

「あー先生俺こないだ学会行ったらさあ……あっそうかまずは今年も一年おつかれさまでした。来年もよろしくお願いします。はい。でさあ、こないだ学会行ったらさあガイドラインが変わっててさあ、また病理と相談しなきゃいけないなって思ったんだよ……」



いろんな人に、矢継ぎ早に「注文」だったり、「最近の医療の話題」だったり、「病理で聞きたいけど勤務中にはちょっと聞きづらかったこと」みたいなのを、たずねられるようになった。

あいさつに回る先々で、仕事の話題がはじまる。



あまりぼくの心情を詳しく書くことはしないが、結論から言うと、ぼくは、今の方が

「常勤でやっててよかったな」

という感覚が強い。


なんでだろうな。便利使いされてるだけのようにも見えるけど。うまく言語化できていないんだけど……。


今は、前よりも、「戦友」になれているような気はするのだ。

2017年1月5日木曜日

タイトルド・ドキュメント

休みの間にいろいろ考えていた。具体的には、趣味をどうするか、という話だ。

音楽を聴くとか本を読むというのは、衣食住に限りなく接近してしまっている。衣食住音読と並べても何の問題もない。だから、趣味とは言えないなあと思う。そうなると、ぼくは現状、仕事しかしていない。

38歳。ここまでほぼ仕事一筋の人生だった。しかし、タイムラインの仕事人間が、山に登ったり写真を撮ったりしているのを見て、うらやましいと思うようになった。

楽しそうだなあと思うようになった。

何のために働いているのか、みたいな、「働くための動機付け」は特に必要としてこなかった。趣味がないと働けない人もいるようだが、ぼくは趣味がなくても働くことはできる。そういう「何かのために持つ趣味」ではなく、単純に、何か違うことをしてみたいなと思った。



運動をしようかと思ったのだが、18年間続けて14年ごぶさたである剣道を今からやり直すにはいろいろと制限がある。第一に、剣道は一人ではできないので、朝稽古に混ぜてもらうか、どこかの少年団や部活などを応援するか、同好会のようなものに入るかしないといけないのだが、勤務時間的にうまく時間を合わせられない。もう少し仕事のやり方が変わるまで待ちたい。だから剣道は保留。同様の理由で、草野球とかフットサルみたいな集団でやるスポーツは全て保留とした。

ランニング、ジム通い、水泳、ボルダリングといった、一人でできそうな運動も考えてはみたし、実はトレーニングウェアの類いも一通り持っているのだが、多少走ってみたけれど、ま、趣味というかこれはぼくの場合、痩せたいとか筋肉を戻したいみたいな目的がほしいわけで、言ってみればタスクだなという感じがした。

酒を飲もう、ウイスキーかワインを趣味にしようと思ったこともある。フェイスブッカケの友人達の中には、週末毎に外食の写真を載せたり、イベントの度にワインセラーを開けたりする人間もいる。考えて、何本か蒸留酒を買ってみた。しかし、減らないのだ。醸造酒すら1本空くまでに信じられないほどの時間がかかる。家で飲めるだけの体力がない。ぼくはそもそも酒が好きじゃないのかもしれない、とまで思うようになった。

釣りはどうだ。映画を見よう。ゲームをしようか。温泉に行こう。キャンプ用品ならある。スキーも持っている。

いずれも続かなさそうだ。試してはいない。ただ、続かなさそうだなあと思うのだった。


ぼくは、たぶん、誰かに引っ張ってもらえば、どれも楽しむことができる。楽しむ人の理由を想像して、楽しんでいる人と同じシナプスを発火させて、同じように興奮したり笑ったりすることができる。忘年会で飲んだ酒はおいしかった。剣道部時代は毎日求道していた。家族で訪れた温泉は気持ちがよかった。元の義父と行った釣りは長閑だった。

あるいは、登山をすれば。いいカメラを買って旅に出れば。ぼくは、楽しい思いをするのかもしれない。けれどそれは、「誰かもこうして楽しんでいたっけな」と、横にはいない誰かの脳を想像してトレースするような作業になるだろうな、と、心の小部屋にいるぼくが頬杖をつく。



そういえばぼくは常に他人の素材で暮らしている。そもそも病理医という仕事がそれだ。付き合う科ごとに異なる立場の患者、異なる疾患、異なる医療者を相手にして、どこかから来た素材に自分の調味料を施して返して、ということを繰り返す。はじめて書いた英文論文がreview(総説)だったのだが、消化器内視鏡診断の総説であって、病理の内容はあまり出てこなかった。他人の書いた論文を集めて評価してまとめて教科書のように送り出した。先日上梓した教科書も内視鏡診断学だ。昨年より続いている連載原稿も超音波診断をモチーフとしており、超音波診断医が持ってきてくれた症例を見てリアクションするかたちで原稿を作っている。

ぼくがやっているのは徹頭徹尾、誰かの脳に追随し、その引っかかりを直したり、あるいは寄り添って追体験したりすることばかりのようだった。

くせになってしまっているのだろう。いざ、自分発で何かを楽しもう、何かを趣味にしようとしても、他人がこれをこう楽しんでいるんだなとか、何かにはまっている人というのは何かに落とし込まれた自分を見て満足できたんだな、よかったなあとか、そういったことばかりに思いが及ぶ。



そうか、ぼくは、誰かの思考をなぞることが好きなのだろうか?
では、それを趣味に活かすことはできないのか?



考古学や古典文学を慈しむ人のように、かつての人々が何を思い、どう暮らしたかを想像していく作業は、夢があり、とても楽しい。しかし、abduction(仮説形成法)と呼ばれるこの知的作業は、そもそもぼくが病理診断において日頃から使っているメソッドそのものでもある。Induction(帰納法)やdeduction(演繹法)のような完全な証明とは違い、abduction(仮説形成法)には厳密性がない、あくまで推定に留まる。ただし、いかに万人が理解しやすいストーリーを隙無く語るかに、魂が込められる。文学的な科学、と言ってもいいかもしれない。

Abductionは趣味の世界として語られることがある。いちおう、立派な学問ではあるのだが。そうか、ぼくの仕事は、受け取りようによっては、趣味みたいな風情があるのかもしれないな。趣味で生きる人間とはステキなことだ。かつてのぼくも、趣味に生きる人間というのは楽しそうだなあと思っていた。

仕事は仕事だ。楽しい。やりがいがある。そして、何か違うものも見ておきたい。趣味という名の、自分の有り様を変える何かを別に用意しようと思ったのに、仕事が趣味っぽくて、だから、仕事以上の趣味を見つけられない、ときている。

頭を抱えてしまう。



こういうことを書くと、「○○、おすすめですよ」のように、自分の趣味を教えてくれる人も現れる。ありがたいことだが、ピントがずれている。趣味を探している最中、誰がどのように楽しむのだろうというトレースをしすぎて、まだやりもせずに飽きてしまったぼくである。

「なるほど、○○をやると、これこれこういう理由で楽しいんですね、きっとこういう楽しみ方も、こんな刺激もあるんでしょう、それは素晴らしいことだ……」

これで満足して終わりだ。むしろ、趣味の可能性を1個潰されたようなものである。



本を読み、音楽を聴き、目的のない旅に出る、脳内で。

そういえばぼくは自分の趣味をブログのタイトルにしていたのではないかと思い立つ。

2017年1月4日水曜日

病理の話(34) がんの話(6) がんは転移する

「5.がんは、転移する。」の話。 

がん細胞は、「異常増殖+不死化+異常分化+浸潤+線維化」を伴う。例外もいっぱいあるが、基本はこうだ。

これで、なぜ人を殺せるのか。

がん細胞が、不死化を伴い異常に増えるなら、増えた場所を取り除けばよい。浸潤して線維化を伴うなら、線維でガチガチになった場所をすべて取り除けば完治するはずだ。 いわゆる、「手術」の理論である。

病気が1箇所に固まっている、すなわち「カタマリ」の病気である腫瘍は、手術で治すのに向いている。では、手術が向いていない病気とはどんな病気か。

カタマリではない病気。たとえば、高血圧とか、ウイルス感染症とか、体全体に影響があったり、そもそも同時多発的に病気が影響しているようなもの。

そして、転移を繰り返しているがん。全身に、同時多発的に、がんがあると、採っても採っても、きりがない。

がんの性質として、異常増殖、不死化、異常分化、浸潤、そして線維化を扱ってきたが、何よりも人の命をおびやかすのは、 「転移」である。

よく考えると不思議な話だ。本来、大腸にある細胞は、大腸ではたらくために特化しているはずだ(それを分化と呼んだ)。さらには、大腸にある細胞は、大腸だからこそ生きていける。細胞には細胞毎にホームグラウンドがある。ホームを離れて、アウェイに浸出すると、生きていけないのが普通なのだ。

大腸がんが肺や肝臓に転移するとき、そこには無数のメカニズムが潜んでいる。そもそも、大腸の粘膜にあったはずのがん細胞が、肺や肝臓に移っても生きていけること自体が非常識である。体はそれほどアホではない。突然肝臓に現れた、大腸由来の細胞に、栄養をいちいち与えるなんてことはしないのだ。肝臓は、大腸の細胞を生かすようにはできていない。

だから、がんも、考える。

・(前回少し話した)線維化を引き起こし、自分の足場を作ることで、アウェイをホームに作り替えてしまう。
・低酸素、低栄養でも生きていけるように、自分を改造する。
・少しでも遠くの土地で生きていけるように、小さく、細かく、隣同士との連絡を解除して、孤独な潜入捜査員となって、血管やリンパ管に入り込む。
・アメリカの人がフランスに行くと言葉はあまり通じないが、イギリスに行ってもオーストラリアに行っても言葉はある程度通じる。だったら、転移先として、ある程度言葉が通じる場所を選ぶ。
・血流に乗って全身をぐるぐる周り、ここから生きていける、という場所で「下車」して、棲み着く。

これらは全てたとえ話だが、実際のがん細胞はこれらの機能を複数、もしくは全て備えている。すべてが、研究のターゲットとなる。



そう、ここまで、がんの話を6回にわたって書いてきた。さすがに気が滅入る。細胞が異常に増えて、不死化して、おかしな分化を示して、浸潤して、線維を増やして周りを破壊して厚さや硬さを増して、そして転移……。これらはすべて、

「研究」

されている。人間の知性をバカにしてもらっては困るのだ。がん細胞なんぞに、なめられてはいられないのだ。

がんが、異常に増えるのはなぜか。どんな遺伝子変異が、がんを異常に増やしているのか。不死化のシグナルは、分化の誘導因子は何か。浸潤に関わるタンパクの種類はなにか、線維化の誘導をもたらすサイトカインはどれか、転移を可能とするメカニズムはなにか……。

すべてが、研究のターゲットであり、創薬や新治療のカギを握る。



病気を研究することは、それだけで科学の色合いを帯びる。研究者は、聞いたこともない横文字の略称を日々ころがして、細胞内で異常に増えたタンパクを光らせてみたとか、どのタンパクがどのタンパクと結合したとか、ヒストンの位置がちょっと変わるとFRET蛍光でわかるとか、メチル化がどうしたとか、サイトカインの伝播が化学波で近似できるとか、まるで病気と関係ない呪文のような言葉を話す。

それはサイエンスであり、またアートでもある。わかる人しかわからない。興味ある人しか金を出さない。

けれど、その先に、たぶん、全ての目標ではないけれど、一つの目標として、「病気を治す」というゴールが、あったりなかったりする。


病理医もまた、がん細胞を見て診断をする「だけ」の毎日に、

「核内のクロマチンが増量しており、核の大きさも増している。核形状も凹凸があって不整だ。核膜も厚いところと薄いところがまちまち。すなわち、増殖異常がある」

「核分裂像が頻繁にみられる、異常核分裂像もみられる。増殖異常がある」

「アポトーシスがみられる。プログラム死が起こっているが、プログラム死を起こした細胞の場所がおかしい。プログラム死異常が存在する」

「正常の高次構造をうまく模倣できていない。腺管の形状に不整がある。正常細胞に発現しているはずのタンパクが免疫染色にて確認できない。一方でがん抑制遺伝子により制御されたタンパクが異常に集積している。分化異常が疑われるし、増殖異常・不死化のシグナルも入っている」

「粘膜筋板が消失して腫瘍が粘膜下層に浸潤している。周囲にdesmoplastic reactionを伴う。浸潤と線維化が認められる」

「リンパ管の中にがん細胞が見られる。転移のリスクが○%高い」

といった、意味づけ、ストーリー付けを行っている。細胞を見て、患者の行く末を見て帰ってきたタイムトラベラーのような顔をする。ぼくらは呪文のような言葉を繰り出す。

患者と医療者は、共に、最前線で病気と戦う猛将達である。彼らが、正しい戦略の元に戦えるように、軍の中枢で大局を見通し、戦を知り、彼我の戦力差を測り、軍略を計る、軍師のような仕事が病理医である。

呪文を使う病理医だから、三国無双バージョンだな、と、思うことがある。ビームを放つ日も近い。