2017年11月17日金曜日

病理の話(141) 移り変わる解釈と不変の所見について

時代が進むと、「医学的に重要だったはずのこと」が、少しずつ移り変わっていく。

これはもう、医学の宿命みたいなものなのである。




胃のある病気(すこし珍しいやつ)は、かつて、「大きければ大きいほど転移のリスクが高い」と言われていた。

・その病気が5.5cmより大きいか、小さいか

これがひとつの目安であった。さらに加えて、以下の評価項目を検討せよ、と昔の教科書に書いてある。

・細胞核が頻繁に分裂しているかどうか
・細胞がぎっちりと詰まっているかどうか
・細胞核の形状がやたらととっぴな構造になっていないか
・病変の中に壊死(細胞が死ぬ領域)がないか
・血管の中にもぐりこんでいないか、胃粘膜の中に分け入っていないか

合計6つのリスクファクター。該当項目にマルをつけて、マルの数が多ければ、転移のリスクが高い。



……でも、今、この評価は使われていない。

今はもっと単純化された。腫瘍の大きさと、核分裂数。この2つがあれば十分だと言われている。「Ki-67」という免疫染色の結果を用いてもよいが、これを加えてもせいぜい3項目だ。

なぜか?



時代が進むにつれて、この病気と診断された人の総数が積み重なっていく。去年も何人いた、今年も何人いた、と、症例を積み上げて検討をしていくことができる。

つまりは、後の世の人のほうが、より多くの症例を検討することができる。より切れ味のよい「統計処理」をすることができる。

これにより、「どの因子が、患者さんの将来をよりはっきりと予測しているか」が、より詳しくわかったのだ。だから、昔検討されていたファクターのすべてをチェックしなくても、診断には十分だ、ということになった。

診断が省力化されたのである。





別の病気の話もしよう。

むかし、ある血液系の病気を、A, Bの2種類にわけていた。

しかし、今はもうこの分類は使われていない。AもBもいっしょくたにして検討している。

せっかく分類したのに。

なぜか?

それは、時代が進んで、新しい薬が登場したからだ。

この薬は、AにもBにも、どちらにもよく効く。

この薬が登場する前は、AとBを比べると、Aの方にはより強力な治療をしないと、患者の命があまり長く保てなかった。Bのほうが少しマイルドな治療でよいとされた。

けれど、ある薬によって、AもBも、分け隔てなく「治る」ようになった。

だから、AとBをもはや分ける必要がなくなってしまった。





以上の2つの例を考えると。

実は、最初の例の、「さまざまなファクター」というのは今でも検討することができる。

あとの例の「AとB」を、今でも分類することは可能である。

けれど、今、それを「してもしなくてもいい」ことになった。その労力を省略する分、もっと大事な分類をして、もっと細かい医療を進めていかなければいけない。






昔も今も、「プレパラート上に見えているもの」はさほど変わっていない。

昔の人だってとても優秀だったのだから。

今の人間がみているもののほとんどは、昔の人もみていた。



ただ、時代が進むと、そのときそのときの医療の「積み重ね」や、「新しい診断法」「新しい治療法」、「生活習慣の違いなどが生み出すリスクの差」、「別の病気が治りやすくなったことで高齢化が進んでいること」などがさまざまにからみあって……。




プレパラートにみえている「事実」の、意味が変わる。重みづけが変わる。

それが、冒頭に書いた、医学的に重要だったはずのことが、少しずつ移り変わっていく、ということである。







職場のボスが、病理検査室にあった古い教科書をすべて大事に保管している。

保管場所がなくなってきたので、医局にあるぼくのデスクを解放して、本棚に所狭しと、昔の教科書を並べている。

1950年代の本もある。

ときどきみてみる。今とはけっこう違う。特に、病気の量は今よりもかなり少ないように思う。

けれど、よくよく読んでみると、そこに書いてある「細胞の所見」だけは、今とそう変わらない。

変わったのは解釈のほうだ。「医学的に重要なこと」が移り変わっている。

時代に合わせて解釈を変えていく。

なんだよ、結局、患者は医者の解釈に振り回されているだけなのか……?

違う。

医者の解釈とはそのときの全力だ。将来出るかもしれない優れた薬にあわせて今の診断を変えることはできないし、変える意味もない。あらたなリスク、あらたな予防、あらたな治療が登場するからこそ、診断も時代毎に姿を変えていく。

病理医はそれに翻弄されそうになりながら、それでも、時代を通じて変わらない「所見」を記載して、「現時点で最高の解釈」を記す。それが、今の医療を生きる病理医のすべきことである。