2017年11月15日水曜日

病理の話(140) 画像もまたひとつの答えであるから

旧知の放射線技師からメールが来て、ある症例について相談を受けた。

ある疾患の超音波画像やCT、MRIを見比べていたところ、少し珍しく、どうにも解せなかったのだという。

情報を元に、ただちに病理組織を検索し、画像の不思議さについては一定の見解を得た。

おもしろかった(というと患者さんに失礼だが、あえて言いたい、おもしろかった)のはそこからだ。

彼はこう言った。

「画像は珍しいんですけど、病理がぜんぜん普通だったら、どうしようかと思っちゃいました。学会に発表しても、なんだそんなのぜんぜん珍しくないよって、言われたらいやだなあ……って」



ぼくはうなってしまった。

画像が珍しい、不思議だ、と思ったなら、それで学会発表の動機としては十分ではないのか。

病理が平凡だと、そこにたどりつくまでの過程でいくら不思議さがあっても、学会では受け入れられない、というのか。

少なくとも彼はそう思ったわけだが。

実際に、そんなことがあるだろうか。



あるな。



学会発表というのはそういうものだ。新規性、異常性、なにか今までと違うものをこそ、発表して検討する価値がある。それは確かにそのとおりなんだけど、でも、現場に生きている我々が、いつもいつも目新しいものばかりに遭遇するわけではない。

だからこそ。

ちょっとした、日常の、ささいな質問を、大事に大事にふくらませていく場所というのもあっていいのではないか?



ぼくはメールに記す。

大丈夫ですよ、病理も十分珍しいですから。どこかに発表しましょう……。

けれど心の中で、強く思う。




病理は答えの一つでしかない。病理診断が珍しくなくたって、画像が珍しい、不思議だ、おもしろいと思ったならば、それは検討する価値が十分にあるのだ、と。




だって、画像もまた一つの答えなのだ。病理がただ一つの答えだなんてことはない。患者の口から出てくる情報も答えである。診察で得られる理学所見も答え。血液検査だって答えの一面だ。

これらの答えが複合されて、最終的に、

「患者がどうなるか」

「患者をどうできるか」

「患者とどう生きるか」

という命題が、本当の答えとして立ち上がってくるのではないかと思う。病理診断が珍しいとか珍しくないとか、そんなことは、本当のところ、どうだっていいのだ。病理診断がすべての答えなわけがないではないか。





と、病理医がいうと、いろいろ面倒なので、小声で控えめにいうようにしている。