2017年11月9日木曜日

病理の話(138) 病理医のバイアスと問いまくられた経験

人というものはなかなか頑固な生き物で、自分の目で見るまでは信用できない、などと言う。

逆に、自分の目で見たものを過剰に信奉してしまうこともある。

実は、病理医あるある、である。

たとえば……。


とある肝臓のがんは、ときおり、肺に転移する。

ではどれくらいの頻度で転移するか?

しょっちゅう、とは言えない程度。

たまに、くらいかな。



ところが、病理医から見ていると、「肝臓のとあるがんの肺転移」というものは、めったに目にしない。

だから、「肝臓のとあるがんは、めったに肺転移を来さない」と言いたくなってしまう。

臨床医と話してみると、イメージよりもはるかに「肝臓のとあるがんの肺転移」は多いらしい。しかし病理医をやっていると、めったに経験しない。この差はなぜ出てくる?




かんたんなことだ。

「肺に転移した肝臓のとあるがんは、手術で採ってくることがめったにない」

からである。

「肺に転移があるとわかった時点で、手術以外の治療を選択する」

と言い換えてもよい。


病理医は、手術などで採ってきた臓器をみるのが仕事だから、手術にならなかったケースについては、普段あまり見ていない。だから、経験できない。



なーんだそんなことかあ。

でもこれは根の深い問題なのである。

 

「病理医としての経験から申し上げますが、最近、子宮の病気の数が減りましたねえ」。

ほんとうだろうか? 実は、その病院で、手術ではなくレーザー治療を積極的に行うようになったから、病理に提出される手術材料の数が減っているだけではないか?

「最近は早期胃癌の頻度がとても増えていますね、進行癌なんて2割も見ないです」

ほんとうだろうか? その病院の外科医の数が減っていて、進行癌の手術をほかの病院に送っているだけではないか?

「○○の○○病の診断は極めてかんたんです。病理で誤診するなんてまずありえませんよ」

ほんとうだろうか? その病院の臨床医がとても優秀だから、病理にお鉢が回る前に診断が9割がた決まっているだけで、他の病院で診断すると実はとても難しい、ということはないか?

「○○病の診断には○○という免疫染色が有効ですね、ぼくはこれでだいぶ診断を決めていますよ」

ほんとうだろうか? たまたま、「落とし穴」となりうる難しい症例を経験していないだけで、診断がかんたんだと思いこんでいるだけではないか?




ほんとうだろうか?
ほんとうだろうか?
ほんとうだろうか?

三度くらい問い返す。手を変え品を変え。時間も場所も変えながら。問い直す。自分の胸に問う。



ぼくが「医学的に正しい」と思っていることが、実は自分の経験によって、すなわち自分の目によって、「歪んだもの」である可能性は、ないだろうか?



経験は手技を迅速にする。

経験によって行動の最適化がなされる。

経験がないときに比べて、経験があるときのほうが、早く自分の思い通りの場所にたどり着ける。

経験とは、そこまでの価値だ(まあ十分ではあるが)。

真実に、科学に、肉薄すべき病理医は、経験によって裏打ちされた真実とやらを、常に問い直すべきである。

「問いまくられた経験」こそが、研磨されたダイヤモンドに匹敵しうるのだ。