2017年7月25日火曜日

病理の話(103) ミクロの限界

顕微鏡でミクロの世界を覗いて、細胞まで見ればなんでもわかるかというと、そんなことはもちろんないのだ。

まず、ダイナミズムがわからない。体の中では生きてうごめいていた細胞も、つまんで採ってきて、ホルマリンやアルコールに浸すことで、その活動を停止してしまう。すると、「うごめき」だけはどうやっても観察することができない。

細胞内外を、水やナトリウム、カリウム、カルシウムなどが行き来する。細胞の周りを、血管が取り巻いて、酸素や栄養を運んでくる。これらは体の中で脈々と動いて、ぼくらの体を維持してくれている生命活動そのものだけれど、ホルマリンで時間停止したプレパラート上ではなかなか観察することができない。

プレパラート観察とは、とてもよく保存された廃墟を観察しているかのようだ。

廃墟にはテーブルや椅子、キッチン、お手洗いなどがあり、食器も、水道管も、トイレットペーパーもそのまま残されているから、中で人々がどのように活動していたのかを類推することはできる。

けれど、動いていた人そのものに話し掛けることはできない。

細胞を見るというのはつまりそういうことだ。ダイナミズムだけは類推しかできない。

だから、循環器内科(心臓とか血液の流れを見る科)と病理との相性は悪い。そもそも循環器系の臨床科はほとんど病理診断を用いない。内分泌・代謝内科なども同様である。

「廃墟を見ることが役に立つ科」だけが、病理診断科をうまく利用することができる。




先ほど、プレパラートに現れる組織構造を「とてもよく保存された廃墟」と書いたが、これも実は、語弊がある。

プレパラート上に見ることができる細胞の「配列」は、確かに生体内にあったときそのままなのだが、実は「間隔」が微妙に異なっている。「サイズ感」と言ってもいい。

「ホルマリン固定」という作業の際に、細胞内外の水分が失われる、すなわち脱水効果があるためだ。水を失うことで、細胞は最大で1割ほど小さくなるし、細胞と細胞との距離はもっと大きく変わることもある。

もとは8畳だった部屋が6畳半くらいに縮む。廃墟から元の構造を想像する際に、頭の中で少し間隔を開いてやらないと、うまく対応しないことがあるのだ。

……大した問題ではない、細胞の並び自体は保たれているから、病理診断には支障を来さない……。

けれども、生体内にその細胞があったときに関わっていた、多くの臨床医からすると、プレパラートを見た時に、「あれ、こんなボリュームだったっけ?」と、違和感を覚える。

病理医にとっては大して困らないけれど、画像を大事にする臨床医療者にとって大きな問題。「廃墟がちょっと縮んでいた問題」。

このことをそもそも知らない病理医もいる。自分たちがさほど困らないので、問題意識として共有できていない。しょうがない。




あと。




病理医は、細胞そのものの変化に敏感なので、そこにがん細胞があるかどうかを常に気にするし、がん細胞がどのような性質をしているかについても繊細だ。

一方、臨床医療者が診ているものは、ミクロではなくマクロである。「がんそのもの」ではなく、「がんが引き起こす現象もろもろ」を見ている。

だから、しばしば、臨床の医療者がほんとうに知りたい情報と、病理医がミクロで観察する細胞の所見とは、うまく対応していないことがある。


「なぜ造影CTの染まりがいつもと比べて少し早いんだと思います?」

「それはあれですよ、がん細胞が特殊だからですよ」


このやりとりは、うまく噛み合っていない。お互いに専門用語を用いているから、はたからみている非専門家にはちんぷんかんぷんだろうが、実は当の臨床医も病理医も、相手が言っていることを正確に理解できていない。



ダイナミズム。サイズ感。ニュアンス。

ミクロの限界とはこのへんにある。

これを知ってから病理診断を勉強し直すと、あれもこれも、不十分だ、不親切だ、不明瞭だとつっこみたくなる。

さんざんつっこんでから、昔から病理診断をしている先輩のレポートを読んでみると、なんのことはない、ぼくが今まで「これは書かなくていい情報だなあ」と思って無視していた、しかし先輩は必ず書いているという所見の中に、臨床の人間が本当に知りたいことが書いてあったりする。

知性で勝負する場であっても経験がものを言うことが、あるんだなあ、と頭を下げる。